吉の腸結核がわるかった間、ひろ子は一度ならず、大扉をぴたりとしめたまま、切窓から眼とチョビ髭だけをのぞかせている看守に告げられた。
「きょうは、気分がわるいから会えないそうだぜ」
「――どんな風にわるいんでしょう」
ひろ子は、衷心から、
「困った」
と云った。
「なーに、大丈夫だよ。まだ当分死にそうでもないや。ハハハハハ」
それなり、むこう側から切窓はしめられた。
ひろ子は、高壁の下から自分の体をもぎ離すのが容易でなかった。翌朝、またそこへ行ってその壁の下に立つとき、ひろ子は、ざらざらしたその壁に、きのうの自分の切ない影がまだのこっているのを見出すような思いだった。
重吉は死ななかった。不思議に死ななかった。もう一いきの恢復という時期、ようよう壮年に入った重吉のこころに体に、癒りたい望みの充満している時期、その顔をやっと面会所の窓で見られるようになった頃、今度は裁判長が弁護士を通して、思わせぶりな提案をした。重吉は、どっさりの条件と保留と仮定とをつけ足して、万ガ[#「ガ」は小書き]一、外で療養でも出来るようになったらばと面会に来たひろ子に云った。
「いろいろ、買いものなんかもして置くがいいよ」
どんなに重吉が、慎重をきわめた保留をつけて語ったにしろ、この一言は、ひろ子を幾晩も眠らせなかった。ひろ子には、簡単らしくそう云ったときの重吉の上体が、面会窓からぐっとはみ出して、大きく大きくなったように映った。そして、その感銘はひろ子にとって殆ど肉体的な訴えであった。
ひろ子の期待と緊張とが支えにくいほどになったとき、重吉は、あっさり、話が不調に終ったことを告げた。
「どうも変だと思ったんだ」
そう云って笑った。
「これまでのやりかたから見て、わかりがよすぎるようなところがあったからね。――ひろ子は心配しないでいい」
今度も、理由は前と同じであった。重吉の思想の立場が変らないから、と。
入院させないと云った時よりも、重吉に対するこの二度目のむごたらしさを、ひろ子は性根にしみて受けとった。重吉のおかれている条件の中で、自然の生活力とそれを保つ心の均衡で死ぬる病から恢復したとき、その恢復期の五月という季節に、七年の間重吉の青春を閉じこめて来た牢獄の窓が、さも開きそうに、さも、もうちょいとのことで開きそうに、身ぶりして見せるとは、何たる卑劣だろう。一方に、思想の立場云々をかざしながら、片手はその扉にかけて、あける気があるふりをして見せるとは。ひろ子は、自分の涙さえ、これについては流すまいと決心した。それほど憤りに燃えた。
この時分から重吉の、しん底からの人間らしさが、やっと本当にひろ子の身と心にしみ入った。二人で暮した期間が余り短かかったのと、重吉の活動に直接加わっていなかったのとで、別れて暮すようになってからひろ子は重吉に対して、いくらか具体性のとぼしい、そのくせ子供めいた敬意をもちつづけて来た。けれども、重吉が、買いものなんかして置くがいいよ、と、おだやかに、ひろ子を惑乱させないようにと心をくばりながらつたえたとき、重吉の体は、あんなに大きくなって面会窓から溢れ出すように見えた。ひろ子の目にだけ、そう見えたのだと決して思えなかった。そこには、重吉の思いも横溢していたのであった。だのに、それがむごたらしくはぐらかされたとき、重吉はあれほど自然だった大きい横溢を収拾して、新しい事情に立った。ひろ子の心情をも支えて立った。その体温が自分の皮膚にもつたわる良人としての重吉を、この時ほどひろ子が瑞々《みずみず》しく、そしてひしと感じたことはなかった。妻たる自分のこの手の指、この足が重吉につながっている。互の間にひとしおの理解と献身の泉が掘りぬかれた。第二の新婚が経験された。それは、未熟なひろ子にもたらされた一つの豊かな変革であった。
ひろ子は、十二年の歳月のうちにこういう思いを経て来ている。重吉が帰る。――もしも、もしも何かの事情でそれが実現しなかったら。もう少しというところで、何事かが重吉の身の上、或は重吉のもっている条件の上に起ったら。
ひろ子は、生きていなければならなかった。それがいつになろうとも、重吉と暮せるときが来るまで、頑固に生きて行かなければならなかった。その失望が、自分を生きにくくするかもしれない、と思うほどの待望を、今、ひろ子は却って自分から押しのけようとするのであった。
友人たちの話との間に、宵宮の祭りにあたったその町の夜の往来をカラコロ、カラコロと通ってゆく下駄の音が冴えて聞える。リーンとすんだ自転車のベルが駛《か》けぬけてゆく。久しぶりに聴く都会の夏の夜らしい物音に、ひろ子は懐しく耳を傾けた。本棚にもたれ、団扇《うちわ》を膝においているひろ子の心に、重吉への思い、一家の柱である息子を失った田舎の母た
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