いた。
「山内さん、あなたのところでは、今でもやっぱり、あんなに畑をやっていらっしゃるの?」
 食糧の不足が一番の原因にはちがいなかったが、ひろ子の友人たちの中には、この数年の間に郊外や近県に移って、畑仕事を相当うちこんでやって来た人々があった。その人々の働きぶりを眺めると、集注出来るだけの仕事をうばわれている者の、人間らしい活動慾が、そこに放散されているという印象を与えられた。八月十五日の意味を、全面から理解出来るこれらの人々が、これから後も、ああいう風に畑をやっていられるものだろうか。もっと、さし迫った活動の予想や計画が、畑からこの人々を別な場所へひきよせ、集め、議論させているのではないだろうか。
「僕のところなんか、もうおしまいですよ。とても、そんなひまはなくなって来た」
「そうだろう? どこでもそうなんだ。うちの畑は、八月十五日をもって一段落だね」
「しかし僕は絶対にイモだけは確保するんだ」
 河本が、すこしずつずる眼鏡を指で鼻の上に押しあげながら、苗が何本、その収穫予想はいくら。盗まれる分を三割として、実収は凡そ六十貫。それだけは確保すると力説した。
「大したもんじゃないか」
「大したものさ!」
 河本は、それだけ甘薯を確保するについては、更にそれより意味のある計画のため、と匂わせて、それを云うのであった。
 篤子が諧謔めかして笑った。
「まあ、わたしたちのところじゃトマトをたっぷり食べられただけいいと思いましょうよ」
 人々の活溌な話しぶりの裡に、気がねをやめた多勢の声が揃う笑いの裡に、磁石の尖端がぴたりと方向を指す迄の震えのような、微妙な模索がうずいていた。ひろ子は、敏感になっている心につよくそれを感じた。誰も彼も、半月前迄自分たちに強いられていた生活は終ったことを確認している。同時に、誰もかれもの心に、まだいきなり早足に歩き出せない気もちと、計画の条件にまだ欠けたものがあることとが感じられている。ひろ子はそう思った。
「間違いのない方向はあるんだから、それで着々やって行けばいいわけなんだ――それにしてもいつ頃帰って来られるだろうな、みんなは……」
「治安維持法をいつ撤廃するか、それが問題だ」
「おそくても、今年のうちには、やらざるを得まい」
「一日も早く帰したいわ、ねえ、ひろ子さん」
 きいているひろ子は、熱い大波に体ごとさらわれるようなこころもちがした。
「あんまり云わないで……」
 ひろ子は弱々しく篤子に囁いた。十二年の生活の間に、ひろ子は、きびしく自分をしつけて来た。重吉と自分とのことで、世間並にうれしいこと、そうありたいこと、そうなったらばどんなに嬉しかろうと思える予想には、最大の用心で、うかつにうれしがらないように抵抗した。
 拘禁生活の七年目に、重吉が腸結核を患って、危篤に陥った。拘置所の医者が、ひろ子に「時間の問題です」と告げた。医者は検事局へ、入院手当させる最後の機会であることを通告した。そのことも、ひろ子は知っていた。ひろ子は、どんなに療養所を調べ、医者に相談し、費用を調達して、待っただろう。
 検事局は、拘置所の医者の注意を拒絶した。重吉が思想の立場を変えないからというのが却下の理由であった。そして、ひろ子が弁護士と一緒に検事に面会して、療養許可を求めたとき、その検事は笑って、
「どうせ石田君は、はじめっから命なんかすててかかっているんだろうから、今更あなたが心配されるにも当らんじゃないですか」と云った。
 明治時代から巣鴨の監獄と云われていた赤煉瓦の建物は、数年前にとりはらわれ、そのあとが広い草原になっていた。監獄のころには、なかに茶畑などまであったらしく、数株の茶の木がまだ残ったりしている原っぱの中のふみつけ道を辿ってゆくと、旧敷地の四分の一ぐらいのところへ退いて拘置所のコンクリート塀が四角くそびえ立っていた。新開の歩道から草原ごしにその高塀を眺めると、塀の上から白っぽい建物の棟々が見えたりして、余り異様な感じは与えない。しかし、一歩ずつその塀の根もとへ近づけば近づくほどその高さが普通でないこと、その高塀があたりまえのものでないことがわかった。高塀には人の目の高さのところに、一つ小さな切窓があけられていた。面会願の手続きがすんで、番が来るとその切窓のわきのベルを押した。すると、重い扉がのろのろと内側から開けられる。その扉の大さは人の身丈の何倍もあったし、切窓に向って佇んで待っているとき、ひろ子の体はまるで、その高塀の根に生えている雑草と同じに低く、無力なものに感じられるのであった。高塀はその高さで異常なばかりでなく、その扉が内側から開けられなければ、よしんばひろ子がその扉にもたれて失神したとしても、外からのひろ子の力では一寸たりとも開けられない性質をもって、突立っているのであった。
 重
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