傍観している。
 ひろ子は、七月の下旬、上野から乗って東北に向った夜行列車の光景を思い出した。混雑は名状出来ず、女は本当に悲鳴をあげた。ひろ子は、人波に圧されて押し込まれ、通路の他人の荷物の上で一夜を明した。しかし、その騒ぎは、同じ空爆を蒙る恐怖に貫かれ、事なかれと願う単純で正直なすべての旅客の希望で一致していた。
「いい月夜になったねえ。お月見にはもって来いだが、ちいと薄気味がよくないねえ」
「小山まで無事に行ったらね」
「ナニ、案ずるより生むがやすいってね」
 流行唄《はやりうた》を謡うものがあったりした。ひろ子のわきで、若い女と膝組みにもまれこまれた父親の好色めいた冗談を、その娘が
「いや、父さんたら。黙ってなさいってば!」
 しきりに小声でたしなめていた。煎り大豆を、わけて食べたりしてひろ子も運ばれて行った。
 今の列車では、万端が全然ちがう。ひろ子の座席の背中に肱をかけて立っている二人連の襟章なしの男たちが、聞かせたそうに、さり気なく大声に喋っていた。
「おい、山田に会ったか」
「彼奴はのこるんだろう」
「そんな筈はねえんだが――奴、要領つかいやがったな」
 何と何とで、と、ひろ子にききとれない軍用語で数えた。
「俺あ、八千円とちいとばかり貰った」
「そうなるか……フム、まあ悪かねえなア」
 東京の外郭にある駅へ来たとき、ひろ子は窓からやっと下りた。その拍子に力をかりたカーキ服の男の腕に目がとまった。その男の白い腕章には英語でミリタリ・ポリスと書かれていた。

        五

 好感をこめて、ひろ子は幾度も鮎沢の茶の間の電燈の笠を見あげた。
 網走へゆくときめて、ひろ子が焼けた東京を出発した時分は、もう東北の田舎へ向ってでも荷物の運送が出来ない状態になっていた。しかし、夜具と本だけはどうしても欲しかった。距離にすれば僅かだが、他県に属するその町に住むようになっていた篤子夫妻が、一方ならず斡旋して、ひろ子に力を添えてくれた。
 網走へは行けず、まるで方角の反対な重吉の田舎へ行かなければならなくなった。それらを知らせたいからばかりでなく、幾家族もが留守に入っている弟の家へ、悲しみにある疲れた体で急行券を買ったりするためわり込んで泊る元気がなかったのであった。
 荷物のことで、泊めて貰ったりした夜に、よく警報が鳴った。往来に近い鮎沢の家では、注意ぶかく、ガンドウのような深い遮光笠を茶の間の電燈につけていた。その息苦しい光の輪の下で食事をしたり、話したりした。
 今度来てみると、その笠に、さっぱりと器用な切り抜き模様がついて、ガンドウの裾も工夫よくつめられている。すっかり明るくなるように工夫されて、ともっている。鮎沢の夫妻は、どっちがどうと云えないほど、こういう思いつきはうまかった。手狭な家を、二人のちょっとした工夫で住心地よくして、篤子はもう何年も或る経済関係の研究所に、雄治は専門の西洋史の勉強の傍ら或る出版社に通っていた。
 電燈を明るくしてよいとなったとき、ひろ子が暮していた弟のうちでは、主人公の行雄が、おもむろに戸棚から必要な数だけ白い瀬戸の笠を出して来た。小枝がそれを拭いて、また行雄がそれをうけとってつけ代えた。遮光笠の方は、物置部屋の背負籠のわきに半ば放りこまれた。それきりであった。
 鮎沢の茶の間の笠は、そういう風には扱われてはいなかった。光をさえぎるようにこしらえられていたその笠を、夫婦で作り更えて、明るいための笠に直して使っている。
 些細なことであるけれども、最近一ヵ月余り、周囲のあらゆる事々が、外からの力で機械的に、さもなければ無意識に、ただ変えられてゆくばかりなのを見て暮していたひろ子には、鮎沢夫妻が、こう変えて行くのだ、と自分たちの方針をきめて笠一つも独創しているのが快よかった。
 八月十五日前後の東京には、田舎町にいたひろ子の知らない種々の現象が起伏し、その話もきいた。
「あの二三日で、東京中にしたらどれほどの書類をやいたんでしょう。あの風景だけは、ひろ子さんに見せておきたかったわ」
 それらの激動の日に、いたるところの歩道へ、焼け焦げた紙片が散乱した。もんぺをやめた洋装の若い女が、高い靴の踵でその紙屑の山を踏みしだいて通った。
「でも、どうなるでしょうね」
「大局的にはポツダム宣言の方向さ」
 雄治が、確信のある語調で篤子に向って云った。
「そりゃそうでしょう。うちの研究所でもね、今までがあの有様だったから、すっかり計画を立て直して、大はりきりよ。これから皆が、本当にテーマをきめてやるんですって」
 話題は重吉の弟の不幸を中心とし、やがて、又、鮎沢夫妻やひろ子自身の仕事について流れ進んだ。
 夕飯後には、近所に住んでいる二三人の友達も集って来た。
 ひろ子は、深い興味をもって友達の一人にき
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