こたなかッぺ」
 それにつれて五兵衛は、何か自分にもかかわりのあった滑稽なことを思い出したらしく、ハハハと、一人でひどく笑った。
「さ、畑さ行がねえば。ばっぱさに又ぼやかれるかんな」
 五兵衛が去ったあと、小枝とひろ子とは何とはなしに暫く話のつぎほを失った。
 生活は、かわりはじめていた。
 東久邇内閣は、毎日毎日、くりかえして、武器、軍需品、兵器物資を自分勝手に処分してはならない。秩序を守って、上部からの命令に従えと全国に向って放送しつづけていた。しかし、その警告が現実には却って、早いもの勝ち、今のうちにと、手あたりばったりな掠奪の刺戟となっているように見えた。
 八月十五日から二三日、全く麻痺したようになっていた小さな町が正気をとり戻したときは、もう、誰それが何をどの位せしめたそうだ、という風な噂で活況を呈した。
 ひろ子が風呂を貰いに行く農家の勘助のところでは、隠居所のようにして、二間の家を富井の門わきにもっていた。十五日の夜行ったとき、根っ子が低く燃えている夏の炉を囲んで勘助父子は褌一本、女房のおとめは腰巻一つの湯上り姿で、ぐったり首を垂れていた。けれどもこの頃では、三人の様子が変った。何とはなしに絶えず気を配り、敏捷に動き、夜になってから、重いリアカーを父子づれで杉の木の闇へ曳きこんだりすることが多くなった。それにいくらかふれるように、
「ゆうべはおそくまで御精が出たのね」
 流しのところで小枝が、そう云っても、
「はあ。なんだかしんねえが、はア……」
 おとめはあいまいに受け流したまま、いそいで井戸ばたの方へ去った。
 これらの、小さいけれども意味深い一つ一つの徴候が、ひろ子の心に感銘を与えつつ重ねられて行った。
 富井の一家のいる村は、市に併合されて町になってから、まだ間のない開墾村であった。明治政府が、大久保利通時代の開発事業の一つとして、何百町歩かの草地を開墾し、遠くの湖水から灌漑用の疏水を引いた。その事業に賛成して、町の資産家たちは「社」を組織して、資金を出した。開墾が出来たとき、「社」の連中は出資額に応じて、田地を分割した。農民は維新で疲弊した東北地方のあちらこちらから移住して来て、初めからこれらの農民の生活は小作として出発された。時代が移っても、小作が多くて、田地もちの少い村であることに変りはなくて、今日まで来たのである。
 恐ろしい戦争がすんだ。村じゅう、気がぬけたようになった。さてそのあと、ここの農民たちの心に、真先に浮んで来る考えは何だろうか。ひろ子は、関心を抑えることが出来なかった。
 八月九日、夕方のラジオで、ソヴェト同盟が日本に宣戦布告した公表があった。そのとき、五兵衛は畑がえりで富井のうちの縁側に休んでいた。迅速に占領された北朝鮮や満州などの戦略地点が報道されると、五兵衛は、野良もんぺを穿いただけの裸の体を、ぺったりとうつ伏せて縁側ごしに畳の上へ汗で黒く光る顔をおとした。
「日本も、はあ、こんで、仕舞った!」
 ニュースがすんでから、ひろ子が、自分に向って納得のため、というように云った。
「しかし、此は案外な事なのかもしれないよ。浦塩から日本まで爆撃機で三時間位でしょう。本当に潰す気なら、どうして、そっちをしないで、朝鮮や満州を抑えているのさ、ね? 始りにキッカケがいる、終るにもキッカケがいる、そんなこともあるんじゃないかしら」
「――なるほどね」
 五兵衛は頬骨の高い顔をもち上げて、渋色になった手拭で顔の汗をふいた。
「なるほどね、当っているかも知んねえ」
 その五兵衛にしろ、ポツダム宣言というものにつれて、変え得られるものとしての、自分の生活を考えていなかった。五兵衛は富井の土地をかりている。だがその土地について考えていない。
 勘助のうちでは、占領軍が、すべての農作物を徴発してしまうのではないかと、やたらに心配した。ひろ子に、くりかえし、その心配を訴えた。勘助の心配はそこに止った。勘助もよその土地を耕していた。そしてその土地について考えているようでもないのであった。
 人民の歴史が飛躍する大きいテーマの一つと感じられた題目の一つは、少くともこの界隈の農民の欲求として、その時期には把握されていなかった。そのまま種板はもう別の一枚にとりかわって、目先の物資の奪い合いに、焦点がずれて行っているのであった。
 土間で代用食の玉蜀黍の皮をむきながら、小枝はしみじみと述懐した。
「ほんとうに、この頃はどこの奥さんたちも大したものねえ。かなわないわ……」
 小枝の生れつきは、そういう意味での敏腕ではなかった。主人の行雄と云えば、戦争中、利益にありつく動きかたをする気がなかった通り、事情が急変したからと云って、急にどうという賢こげな動きかたもしなかった。富井のうちのぐるり一帯には噂話ばかり横行してい
前へ 次へ
全55ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング