て、しかも小枝たちの日常生活には、子供のゴム長靴一足現れるではなかった。律気な小枝は、子供たちのおやつの桃を買うために、夜明から自転車にのって、遠い村まで出かけていた。
 五兵衛たちの話しぶりは一種独特なものになって来た。豚肉が何貫目とか手に入ったという話。食用油を一カンずつ分配したという話。そういう事がみんな、何日か前にすんでしまったとき、さもなければ、もう申込を締切ったというような時になっていつも小枝の耳に入った。
「まあ。そんなことがあったの!」
 日やけした小枝の頬は、そうきいたとき、ほんの短い間、さっと赧《あか》らんだ。その赧らみはすぐ消えた。消えたとき、小枝はもう二度とその話には戻ってゆかなかった。
 そういう小枝を見るのがひろ子には切なかった。日頃、小枝は、近所となりや村じゅうから好意をもってつき合われていた。彼女の勤勉と、人柄のよさが、生活の細々したところで、主婦としての彼女のしのぎよさになっていた。それはそうなのだけれど、そして、今でもそれにちがいないのだけれども、違いないなかに、はっきりちがいが生じて来ている。
 物資にからんでその中心地となっている連隊から、富井の家が遠いからばかりではない。五兵衛たちのぬけ目のない日暮しの才覚が縦横に走っている村人の生活の流れの筋は、富井の屋敷のぐるりを四角く囲んで、白いどくだみの花を咲かせている浅い溝まで来て、ぴたりと止っている。ひろ子は切実に、それを感じた。村の人々の生活の流れはそこまで来て一応とまった。また折れ曲って、次のどこかへ流れ込むにしろ、決して富井の内庭までびたびたと入って来ることはないのである。
 これは、小枝のせいでも、行雄のせいでもなかった。富井という家がこの土地でもって来た家としての性質が、今、はっきりと証明されている意味であった。富井の一家は、村の農民仲間ではない。中学校の教師でもなかった。その人々から見れば、富井のものが自分たちと全く一つ利害に立って暮しているとは考えられていない。そういう立場の反映であった。
 ひろ子は、いよいよ重吉のいる網走へ行きたく思った。そこで、ひろ子はたった一人むき出しの生活をしなければならない。思想犯の妻という、狭い暮しであるかもしれない。しかし、そこではひろ子はひろ子なりに、愛されても憎まれても、それはみんな自分に直接かかわることとして生きて行けるだろう。日本は変る。変る波の一つ一つを、ひろ子は重吉の妻としての我が身の立場にはっきり立って、犇々《ひしひし》とうけて、生きてみたかった。
 空爆で途絶していた青函連絡船は、今度は復員で一般の人をのせなくなってしまった。
 網走へもって行く筈の行李につめてあった秋の単衣《ひとえ》をまたとり出して、ひろ子は駅までの行き来に着た。地図で見れば、小指の幅ほどの海、小さい陸地の裂けめ。眺め、眺めて、とうとうひろ子は、その陸地の裂けめの突端に立って、向う岸を見ていようという気になった。そこで待っていて、いざと乗れる船をつかまえよう。そういう気になった。焼けた青森の地に、バラックを立てて住みはじめたという親しい友達に、ひろ子は自分の計画を相談する手紙を出した。

        三

 東京港に碇泊中のミゾリー号の甲板で、無条件降伏の調印がされた。
 ラジオできいていると、その日のミゾリー号の甲板に、ペルリ提督がもって来た星条旗が飾られていたという情景も目に見えるようだった。秋らしい陽の光のとける田舎の風景に、ラジオの声は遠くまで響いた。
 村なかの街道は、どちらへ向いて歩いて行っても山並が見えた。耕地を越して公会堂の円屋根の遙か彼方に連っている山々。農家の馬小屋の間から思いもかけずに展がる目路に高い西の山々。どの山も、秋の山襞を美しく浮き立たせ、冬の近づく人間の暮しを思わせた。ひろ子は、ひとしお網走を恋うた。
 そういうある午後、富井の門の内に男の子たちが集まって大さわぎをやっていた。伸一を先頭に金鎚、薪割、棒きれを握った少年たちが、声を限りに大活動をやっている中心には、光る銀灰色に塗られた流線型の小型ボートめいた物がころがっていた。
 パーンと、反響を大きくそれを打つ音がした。
「アレ! 俺らの手、ズーンちったよ」
「駄目だてば! 吉川、ここだったら、ホレ!」
 三四人が懸声を合せて、流線型をひっくりかえした。そのはずみに、自分も裸足《はだし》になって大いに参加していた四つの健吉が、ころんところがされた。
「健ちゃんがころげたぞ!」
「なアに、つええなア、もう一つ、ホーラ。でっくり返すべ!」
 稚なごえをはり上げて、「健タン、健タン」と叫びながら起き上った健吉が、またもや勇ましく流線型にとりついて行った。
 それは、飛行機につけるガソリン・タンクであった。こしらえたばかりで戦争が終
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