境遇の現実である。ひろ子はそこに、つや子の哀れを感じた。
母と二人きりになったとき、ひろ子は母の膝に手をかけて、
「お母さん」
と云った。
「お母さんのお心を思うと、わたしは、何とも云えないの。何てひどい物々交換でしょう。ね、お母さんは、大切な一人の息子とひきかえに、やっと一人の息子をとりかえしなさったのよ。何てことでしょう」
「ほんにのう」
母は、深い息をついた。そして、遠い山の頂の松を眺めながら、
「――進三がまだのこっちょる」
やさしい愛着にみちた母親の声でつぶやいた。
「あれのおるところに、食べるものはあってのじゃろうか……」
十六
目じるしにビロードの小切れを結びつけられたリュックが、再び頭の上の網棚にのっている。そのリュックの中には、お握りの弁当があり、丈夫な二つの紙袋があり、中ぐらいの大さの丸罐も一つ入っていた。紙袋の一つは万一の用心のための米であった。もう一つの紙袋には、挽きたてのハッタイ粉が入っていた。重吉からの手紙の中で、故郷のハッタイ粉をなつかしんで話していたのが思い出された。第一に、それを食べさせたい。じかにそれをつや子に云いかねて、ひろ子は縫子にそっとささやいた。縫子は、自分の思いつきとして、麦を焙《ほう》じ、もち米を加え、みんなで挽いたのであった。丸罐には、白砂糖が入っていた。直次の友達が、重吉の帰りをきいて、祝いにくれた。そして、一足の靴も入っていた。進三が中支にいたとき買って送ったのを、重吉のために、母がくれた。それらが、網棚のリュックのなかみである。
ひろ子は、来たときのままの装《なり》で、紺絣のモンペをつけ、さきの丸まっちい女学生靴をはき、東に向って進む座席にかけていた。
こういう事情になってみれば、ひろ子が網走へ行けなかったということも、あながち不便ばかりではなかった。そして、東京の弟の家が焼けのこっていることも、重吉とひろ子にとっての大きな仕合わせと云えた。その家は、北側の垣根一重むこうまで焼けて、浅い庭木越しには何里とその先に続く焼野原であった。水道が出ないにしろ、まるっきりガスが出ないにしろ、そこには、住むところがある。二人[#「二人」に傍点]で、住むところがある。何と馴れない、痛いように新鮮な感じだろう――二人で暮す、という言葉は。ひろ子が重吉の妻になって、一つ家に住んだのは、二ヵ月足らずであった。その二ヵ月足らずの、いそがしい、出入りの多い朝夕を送った小さな細長い二階家は、今残っている弟の家から西北数丁のところにあった。そこは焼けてしまった。
一人暮しの永い年月の間に、ひろ子は、巣をかけてはそれをこわされ、又巣をかけては、それを持ち切れないような目に会わされて、幾度か引越しをした。それらの屋根の小さい家々も一九四五年の春から夏までの間にみんな焼けてしまった。重吉は、おそらく小さなふろしき包み一つを下げて帰って来るだろう。世間ばなれのした和服を着て、下駄さえも重吉はもっていないのだからおそらく公判につかった草履をはいて。ひろ子にあるものは、困難な時々に売って大分内容の変ってしまった本棚と机とふとんと、それから、もし家をもつときは、と思って、網走行の荷物にそえて集めておいたいくらかの世帯道具と。ろくな家財さえない。
しかし、ひろ子には、自分たちに何にもない、ということが、いわば、最もあることの逆現象のような気がした。それでこそ、自分たちとしては自然であると思えた。これらの十余年の二人の生活を思えば、そこに何があり得たろう。今、解放がある。それでつきている。
ひろ子は、何も考えず、しかも無限に去来する思いの上にただよいながら、のっていた。車輪がレールの接続をこすたびに、カッ、カッと規則正しく、なめらかな響で鳴っている。それは進んでいる証拠である。確実にひろ子の渇望に向ってはしっているしるしである。
ところが、午後四時頃になって車内に不安な噂がつたわって来た。呉まで来る間にも、まだ出水の被害がのこっていて、大分おくれたその列車はおそらく須波より先へは行くまい、というのである。須波とその次の三原駅の間に大鉄橋があり、それがおちているのだがまだ恢復の見込がついていないというのであった。
「弱ったなあ。――その何とかいうところから次の駅まで、何里ぐらいあるんでしょうな」
「半里ぐらいなもんでしょう」
「何時頃つくでしょう、この分じゃ大分おくれますなあ」
「本来は六時すぎの筈だが、わるくすると九時になりますね」
雨が降りはじめた。ひろ子は、その噂をきいたとき、単純に考えた。どうせ、みんな徒歩連絡をするのだろう。重吉の家の窓から眺めた人々の歩きぶりを思い浮べた。その列について自分も歩いて、三原という駅で夜明しでもしよう。
弱った、とくりかえして、雨が降り
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