夫がそこに混って遊んでいた。癇のきつい浅黒い顔に大亢奮を燃えたたせて、ドタリと下へすべりついたとたん、昭夫の目に、通りがかっているひろ子と縫子は入りようもない。
「まあ、あの泥!」
縫子は、笑ってちょっと立ち止った。この昭夫の姿を見、そこからもう新道の下に見えはじめた屋根屋根を眺めたとき、ひろ子は我を忘れて前のめりになっていた感情のはやりから、急にひき戻された。この屋根屋根は、「後家町」の屋根屋根であった。決して還ることのない人々への悲しさと壊れた生活の思いのなまなましい屋根屋根である。今まで吹きつける火焔のようにはばかりなくほとばしっていた自分の熱中が、この屋根屋根の下から動きようもなく暮す女たちにとって、どう感じられるであろうか。ひろ子は、自分から正気を失わせそうな歓喜と期待、勇躍の輝やかしさに対して、萎縮した。これらの悲しい妻に対して、もっともしのぎやすい形でこの歓びを表現するのが、ひろ子の義務ではないだろうか。
「お姉さん、どうして? 疲れてでありますか? あんまりいそいで歩かれたけ」
本当にくたびれの出た顔つきで、ひろ子はゆっくり裏から石田の土間に入って行った。裏座敷にだけ畳が入っていた。店の間は、まだ床板も入れてない。
声をききつけて、行く前には無かった下見窓が明るく一つ切りひらかれた戸棚の前から母が出て来た。
「どうも御苦労さまでした。随分きれいになったこと!」
ひろ子は、挨拶した。
「お母さん、けさの新聞を御覧になりましたか?」
「重吉が帰りよりますのう。早う、田原へ知らさにゃと云っとったところいの。電話は通ぜんし……はよ戻ってよかった」
「あれに十日迄とあったでしょう。きょう立ってやっと位でしょうね」
「それいの――でも、どうにありましょう。一人で戻らりょかのう、あんた」
そのことをひろ子も気にかけた。十二年とりこめられて暮した病身の重吉が、一人で網走から、あの恐ろしい汽車にかきのってどうせ食べるものもろくに持たされず帰って来ることを思うと、いたいたしかった。
「東京から誰かに行って貰うにしろ、何しろ今のことで、どうせ間に合いっこなし。何とかなさるでしょう。そう思うしか方法がない。――お金は十分おもちです」
「そやったら、まあ、ええわの」
そこへつや子が、治郎を抱いて表から入って来た。土間の床几に縫子と並んでかけているひろ子を見て、受け口の口許をほころばした。
「新聞見てでありましょう? ほん、よろしうありましたのう。おめでとうございます」
「よかったわねえ。みんなのために、本当によかったわ、ありがとう」
つや子はもうはだしではなく、下駄をはいて、やつれながらもいくらか安堵した様子であった。
「おばあちゃん、切符何とかせにゃいけますまい」
「それ、それ。一寸駅へいって来よう」
母は、駅長にあって、重吉が解放される事情を話し、特別許可で八日にはじめて開通する呉線まわりの列車の切符を一枚とってくれた。万一の場合を考えて、ひろ子はその切符を、青森までのに頼んだ。七日が呉進駐で、列車の運転は禁止されているのであった。
「仕様がない。まあ、あした一日お待ちませ」
登代は、満足そうに微笑んだ。
「駅長はんも、永年御苦労様なことじゃあったとお祝い云うてでありましたよ」
重吉という名が、母にとってよろこびをもたらすものでなくなってから、幾何かの歳月がすぎたろう。世間の沢山の人同様、母は恐ろしい虚偽の報道に辱しめ苦しめられ、正義のない正義の法律によっておびやかされつづけて来たのであった。
「ほん、お父はんをきょうまで生かしておきたかったのう」
夕飯のあと、母はしみじみ述懐した。
「田原の叔父さあも、どんなによろこうでかしれんのに。直次は、兄さんが戻ったらほん大切にして暮さすのに、といつも云うちょった、のう、つや子はん」
「ほん、よう、そう云うとでありましたのう」
「ひろ子はん、あんた、こんど重吉が戻ったら、もうどこにも行かさんことでありますよ」
云いつけるように真心こめて云った。
「ここにおいませ。何年でもここに二人でおいませ。あなたは二階で小説かいて、重吉は市役所へなりつとめりゃ退屈せんわいの。水こそつきよるが、この田舎もようありますよ」
十余年も牢やでがんばった重吉を、今度こそ市役所へつとめさせるという考えは、云い出した母親自身さえ、笑い出すおかしみに溢れていた。そして、情愛にあふれている。
つや子が、こういう笑声の中にも一座し、明日の弁当、途中の用意と、縫子と二人で世話をやいてくれることを、ひろ子はいじらしく思った。力相応の平穏な暮しの中でなら、こわくも、おそろしくもならない若い弱いつや子が、しばしば、体力的にも生活の重荷を感じて、何か近よりにくいひとになる。しかも、それをさけることは出来ない
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