箪笥が置かれて、側面に、ひなびたかけ鏡がかかっている。ひろ子は立って行って、涙のおさまった自分の顔をつくづくとその上に眺めた。そして、縫子に声をかけた。
「ねえ、縫ちゃん」
「なんでありますか」
「どうも、この調子だと、わたしは一番綺麗でいたいとき、一番みっともなくなってしまいそうだわ」
「あら」
「だってそうじゃないの。もし、かりに重吉さんが帰るときまったら――かりに、そうときまったらよ」
 ひろ子は、その仮定をしつこく繰返した。
「わたしは歩いたって東京へゆくわ。そうでなくたって、もうこの四五日で大分あやしくなってしまったんだもの――へこたれねえ」縫子は、年かさの娘のものわかりのよさで優しく力づけた。
「心配はいりませんよ。汽車もそろそろ通じているし――大丈夫でありますよ」

 十月六日、例によって正午近く新聞がくばられた。縫子と叔母とは、ドーナッツを御馳走すると云って、台所の七輪のところにいた。
 ひろ子は新聞をもって来て机の前へ坐った。見出しを先ずたどって行って、紙面の中ごろへかかったとき、ひろ子の顔つきが突然変った。そこに思想犯解放の予告が示されていた。連合軍の命令によって十月十日までに解放さるべき思想犯の氏名が列記されている。(府中)と拘置されている地名の上に、先日外人記者とインタービューした徳田球一の名が筆頭に明記されている。ひろ子の視線はつき刺さる矢のように、それに続くたくさんの姓名の上を飛んだ。石田重吉(網走)と出ている。出ている。出ている。網走、石田重吉と出た。これで、重吉は帰る、ひとりでに呼び声となった。
「縫ちゃん! 縫ちゃん!」
 廊下の途中で、手をふきふき来る縫子の腕をつかみしめた。
「縫ちゃん、これ見て!」
「おお! 出ちょる、出ちょる!」
「さあ、もうたしかよ」
 ひろ子は、
「ああ、たすかった」
 心からうめいて、目に涙を浮べながら笑顔になった。声をききつけて、白い粉にまびれた手のまま、叔母もかけて来た。
「どうでありますか? 出ちょってでありますか」
「ほれ、こんに」
 縫子がその記事をさした。
「どれ、どれ」
 さし出された新聞を、都合のよいところまでもう一遍はなして叔母は読んだ。
「ほんに。こんどは確実でありますよ」
「私、こうしてはいられない」
 ひろ子は、にわかに困ったような、たよりなげな表情になった。
「十日までというから、仮に八日か九日網走を出るとして、東京に着くのは十三、四日でしょう。すぐ立たなくちゃ」
「福島へよってでありますまいか」
 一時に、いろいろの可能が考えられ話し出された。そのどれもが、西から帰って行くひろ子と行きちがいそうに思えるのであった。
「ともかく東京まで帰りましょう」
 最後に決心して、ひろ子が云った。
「東京に、連絡事務所が出来たらしいし」
 重吉が依頼していた弁護士の一人の事務所が連絡所として発表されているのであった。
「はあ、すぐ駅へおかえりませ。今夜の汽車にでも乗れたら乗ることが。のう、あんた」
「じゃあ、ドーナッツ、持たせましょう。もうそれどころでないわ」
「それ、それ」
 さわ子によろしくを言伝るのがやっとで、ひろ子は又縫子とつれ立って、家を出た。
 来たときのとおりの道を、今度はこちらから歩いてゆく。ひろ子は、自分がどんなに物も云わず、出来るだけの速力を出し、むきになって歩いているか心付かなかった。ときどき縫子が、
「もうちとゆう[#「ゆう」に傍点]に行きましょうか」
と、歩調をゆるめた。ひろ子は、それを従妹が自分の脚の速さを気がねするのだと、とった。
「大丈夫よ、この位」
「ここまで来れば、三分の一は来よりましたよ」
 しばらく進んで、来るときも通った切通しにかかったとき、縫子は、
「もうあと四十分ばかりでありますのう」
と云った。
「一足一足、歩くのって、何て手間のかかることだろう!」
 一足の幅の小ささと道のりの長さとを、ひろ子は苦しく対照して感じるのであった。同じ道を往きに通ったとき、ひろ子は一つ一つとこまかに周囲を眺め、自分たちの歩いている新道の、無慈悲な直線がその左右に展開している生活破壊に目をとめた。今、同じ道の上を逆行してゆくひろ子に、近い田畑、飯場、つらなり重った西国の山々は、まるで一様の緑色にとけ流れて感じられた。ひたすら歩いているひろ子の足は、思う三分の一もはかどらないのに、正面にすわった眼の左右を、遠近の景色は青く流れて、うしろへ、うしろへと速く通過してゆく感じなのであった。
 部落の入りかかりの小山の頂上に、多賀さんという社がある。その石段わきの崖が、この間の大雨と出水とで、大きな地すべりをおこしていた。部落の男の子たちが、そこへかたまって、サンダワラを尻の下に敷いて、ウォータ・シュートのように辷りっこをしている。昭
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