室に来る女たちの顔ぶれが変化した。次第に、思想犯の妻や母の姿がまばらになった。その変化は、日本の侵略戦争の進度に応じるものであった。そしてだんだん贅沢な身なりをして、傲然としながら動きのない瞳をした商人の妻たちがふえた。
思想犯の妻として、留守暮しをするひろ子のやや特殊であった妻としての生活は、いつともなく極めて微妙な相似性で、日本じゅうの、数千数百万の妻たちの思いと共通なものとなりはじめた。その妻たちの良人は、みんな外からの力で、いや応なし軍隊に入れられた。どこに進むのか本人にさえ知らされない輸送船につめられて、海峡をこえたり、太平洋をわたって赤道を通ったりさせられた。重吉を、うちからつれて行った力も、それと全く同じ強権であった。自分ののせられた自動車の行先について、説明を与えるものはいなかった。銃を与えられ、背嚢を負わされてそれらの良人たちは運ばれた。重吉は鉄の手錠をかけられ、編笠をかぶせられ、そして運ばれた。自分の意志や希望で行先が選べないことも同じであったし、行ったら自由に帰れないことも本当にそっくりそのままであった。思うままの心もちを披瀝《ひれき》し、話したい日常の経験についてあからさまな手紙をかくことが許されないことも、そっくりそのままである。そこには、素人に分らない規則があった。外界から遮断された独特の官僚主義と情実。不正腐敗のあることも同じであった。つよく生きぬくものしか、まともに生きにくい。その境遇の荒々しさも同様である。
自分たちの心痛さえ思うようには伝えられず、その能力が与えられていようと、いなかろうと、妻が一家の支柱とならざるを得ない事情を、ひろ子は自分ばかりか日本じゅうの妻たちの上に発見したのであった。
ひろ子が小説に描きたいと思う女のこころもちは、いわば日本のあらゆる女性の感情のテーマとなって来たのであった。
ところが、たった一点、ひろ子の小説が、どうしても禁止されなければならないわけがあった。ひろ子の人間として、女としての訴えが真実であり、その表現が万人の女性のものであればあるほど、禁止されなければならない理由があった。それは、ひろ子が、天皇と愛国心と幸福の建設のためにと称して行われている戦争に対して、信頼できないこころをもっている女であるということであった。侵略戦争と民衆生活の上に加えられる破壊に対して抵抗している思想犯の妻である、ということであった。
ひろ子の文学が、最も真実に恋愛を失った若い娘たち、生活の柱を失った妻たちのものとなろうとしたとき、ひろ子が書くあらゆるものは発表を許されなくなった。ひろ子のすべての熱意、すべての表現の欲望は、ひたすら重吉への手紙へばかり注ぎつくされた。
そういう明暮になってみて、ひろ子は、自分が一人の妻として、今の日本にあふれている数千万の妻たち愛人たちよりも、むしろ幸福な者であることを痛感した。ひろ子は、重吉の居どころをはっきり知っていることが出来た。規則が許す範囲の面会が出来た。未決のうちは、自分で心をくばった衣類をきせておくことが出来た。そして、何よりも重大なことは、ひろ子には手紙が書けることであった。重吉もひろ子に手紙の書けることであった。
数万の妻たちの条件はそれとはちがっていた。彼女たちの良人は何処にいるのだろう。妻たちにそれさえはっきりとは知ることが出来なかった。今来たこの手紙をよんでいる、この瞬間、良人のいのちは果して安全であるかどうか。誰が知っていよう。
その心配に焦点さえ与えられない。絶対なそのへだたりの感覚さえ、遙かにぼやかされてしまっているはかない別離。ひろ子はその現実のむごたらしさを想うと耐えがたかった。そして、たとえその妻たちの留守居はまだ二三年であり、或は四五年であり、自分の独りぐらしは十余年であるにしろ、ひろ子は自身の苦痛において謙遜になった。
何かの意味で眠れない夜々をもたない女は、日本にいないのであった。
四日ばかりたった日、ひろ子をひとしお衝き動かす記事が出た。外人記者が府中刑務所の一部にこしらえられているナチスまがいの予防拘禁所へ行って、徳田球一、志賀義雄その他の思想犯と対談したニュースである。
ひろ子は、くりかえし、くりかえし、その記事をよんだ。冷静な報道のかげに、はやまり高まっている獄中の人々の鼓動が脈うっていた。大なる精力をもってほとばしる談話。殺されなかった人間性の奔流が感じられた。鉄格子の際の際までひしめき出てその間から外を見、待っている人間の群がある。その眼の光がある。ひろ子は、涙が流れて、とどまらなかった。
たしかにこれらの人々の声は、きこえはじめた。――だが、あの一つの声は? そして、遠くにあるあの眼は?
縫子が、となりの座敷で、ひっそりと縫物をしていた。うしろに、叔母の古風な大
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