重吉がふりかえってひろ子を見て、笑った。それはいつもの重吉の笑いかたであった。快活に、口元をゆるめその唇の隅にすこし皮肉な皺をよせ、それは重吉のいつもの笑顔であった。それに誘われて、ひろ子も笑顔になった。が、ひろ子の笑顔は一瞬だけのものであった。ひろ子は、つかつかとベンチをよけて、重吉に近づいた。左右からはさんでいる看守は、せき立てるように歩きかけている。ひろ子の身ごなしとその顔つきが、全体で示している感情を重吉はうけとり、理解し、それを鎮めるような、もう一つの笑顔をした。そして、弁護士へともひろ子へともとれる云いかたで、
「じゃ、あさって、又」
と云い、大きな手錠のはめられている手で編笠を頭へのっけて出て行った。その日は、土曜日であった。
そのとき、ひろ子はどんな眼色になっていただろう。それは見えなかったけれども、正直な永田さんの顔が、あんなにもぱっと赤くなったのと、重吉が、永年の病気と日光不足の生活とで、滑らかな蒼い顔をしながら、黒く柔かく、しかも屈することのない眼ざしで、ほとんど滑稽を感じているような笑顔をしたのとは、生涯忘れることはないだろう。
その重吉の眼と笑顔とが、その夜更け、大名竹の影のうつっている広い秋の蚊帳のなかにあった。白い覆いのかけられた小さい枕のところにあり、ひろ子の二つのてのひらの間にあった。重吉のまだ短く刈られていない髪は、すこし長く額の上に乱れかかって、それをかきあげるとき、指に軽かった。その髪に、ひろ子の指がふれてから、何年が過ぎたことだろう。
無慚《むざん》、という言葉がある。そして、無慚な事実、というものもある。もし、今度、治安維持法撤廃によって思想犯が解放されるとき、重吉やその同志が、ほかに罪名をつけられているのを理由に出獄させられないとしたら、それは、無慚である。無慚すぎる。
無慚すぎるそのことを、決してあり得ないことだと考えられない権力の発動のしかたの無慚さこそ、無慚そのものではなかろうか。
重吉にひかれ、あこがれる情感のふかいはげしい濤のうねりと、無慚な権力の重さにあらがう思いとで、ひろ子は、もえる床の上におき上った。
これまで十二年の間、面会に行った五分か十分の間、重吉の顔の上に混乱や苦悩があらわれていたことは一遍もなかった。その顔をうちみれば、ひろ子は苦しさを忘れるすがすがしさがあった。腸結核をわずらって、やっと接見室まで出て来た夏の日、重吉は、椅子にちゃんとかけている体の力さえまだ無かった。ねまきを着て、ずり落ちたように椅子にもたれこんでいる重吉の髪がすっかり脱けおちて、テーブル一つをへだてたひろ子のところから見ると、生え際がポーとすいて見えた。それは、絵にかく幽霊の髪の生えかたそっくりであった。ああ、これはお化けの絵にある髪だ。ひろ子は目を見開いてそれを見つめた。そんなに、死にかかったとき、重吉は、やはりひろ子の救いとなる笑顔をもっていた。そして、その笑顔をみれば、おのずからそれにこたえて、ひろ子の丸い顔も、いつしか爽やかな、さざなみのようなこころがうつった。
けれども、ひろ子は、時々自分にどんな夜があるかを知っていた。おのずから、重吉にもそういう夜が、或はそういう永い昼間があることを感じていた。様々な夜と昼をとおして、自分たちが不思議な一艘の船であることを感じて来た。夜と昼とは、あてどもなく繰りかえされる海の波のようなものではなく、進む船にとってはそこにあと戻りすることのない時間の経過があり、歴史の推移があるのであった。
月が西にまわって、蚊帳の上に大名竹の影が少し移った。どこか遠くの山よりで、故郷へかえる朝鮮人の酒盛りがあり、かすかに謡う声や手拍子の音が風に運ばれて来た。
十五
重吉のうちへ来たとき、リュックを背負って、女学生靴をはいたひろ子は、やせて、色も黒くやつれていた。
田原へ来て、笑うこともふえて、ひろ子はいくらか、ふくよかになった。朝起きて、鏡を見て、
「ほら、又すこし美人になった」
と冗談を云った。
しかし、今眠られない夜がはじまった。ひろ子は、眠った夜については、話したが、その夜々が眠りを失ったとき、決して誰にも訴えなかった。眠れない夜をもたないで生きて来ている人々というものが此の世の中にあるだろうか。まして、戦争がはじまってから。――ましてや、戦争は終ったが、幾百万のかえらぬ人々があって、その母や妻たちが、すっかり相貌の変じた彼女たちの人生について、不安をもって思いめぐらしているとき。――
重吉が獄中生活をはじめた初めの間、ひろ子と同じ立場の留守の妻たちは、少くなかった。思想犯の妻たちは、良人の入れられている拘置所の待合室でいつの間にか知り合い、事件について話し合い、互に元気を与え合った。
数年たつうちに、待合
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