は、御判断によって網走に行って下さる必要があるなら、即刻、塚本氏から旅費をうけとって出発して欲しいと書いた。自分が、どういう理由にしろ東京にいない間のとっさの用のために、いくらかの金が用意してあった。
 縫子は、すぐ出かけた。
 ひろ子は、自分がここにいて、目下の事情の中で、しのこされていることはないだろうかと思いめぐらした。重吉の予審と公判の行われていた数年の間、法律を知らないひろ子は、誰でもが持ち合わせている常識と小説をかくものの自然な洞察、想像力、構成の能力とでもいうようなものだけをたよりに、判断し、行動して来た。いくつもの粗忽《そこつ》をし、手ちがいをし、重吉に不便をかけた。

 八畳の室に、ひろ子一人がねていた。二三日で十月になるのに、ここでは蚊帳がいった。おそい月が出た。大名竹の黒い影がガラス越しに縁側の障子にさしている。
 昔、田端に、天然自笑軒という茶料理があった。そこの中庭の白壁に、酔余に大観が描いたという竹の墨絵があった。
 自笑軒で、芥川龍之介の年忌の句会が毎年もよおされた。重吉が、はじめて発表した労作は、芥川龍之介の文学とその死とが語る日本の知識人の一つの歴史的転換についての究明であった。
 ひろ子が、重吉のその論文の出ている雑誌を読んだのは、遠い外国の質素なホテルのテーブルの上であった。その時分のひろ子は、どんな気持で暮していただろう。そのようにして名だけを知った重吉が、こんなにとけこんで自分の生涯にない合わされて来ようと、思ってもいたろうか。重吉自身、若々しい精根をきざみこんでそれらの論文をかいていたとき、僅か三年後に牢獄の生活がはじまり、やがて無期懲役というような宣告が与えられようと、想像もしなかったであろう。
 だが、もしかしたら、重吉は、あらゆる可能に向って用意されたこころもちで生きて働き、ひろ子を妻としていたとも思える。
 かすかな風で葉のそよぐ大名竹の影絵を眺めながら、枕の上で大きく眼をあいているひろ子に、四月下旬の昼ごろの日光に照し出されたほこりっぽい公判廷の光景がよみがえって来た。
 判決言渡しが予定されていたその日、午前十時頃から東京は小型機の編隊におどかされた。定刻までに裁判所へ行っていた永田さんから、中止の電話がかかった。ひろ子は、持てあつかっていた鉄兜を肩からおろし、もんぺをはきかえた。そのうち、空襲警報が警戒警報にかわった。すると、またベルが鳴って、裁判所では、急に開廷することにきめたからいそいで来るようにと知らせて来た。
「何と意地わるなんでしょう。家族が間に合わないと知れているのに――」
「私の方で出来るだけ時間をはかっていますから、ともかく早くおいで下さい」
 ひろ子の住居から裁判所までは一時間かかった。歩いて、それから都電にのって、また歩いて、その間にかかる時間は、ちぢめようにもほかにてだてはないのであった。ひろ子は、本当に息をきらして、裁判所の三階にある公判廷に入って行った。
 開廷されていて、ほそおもての裁判長が何かを読み上げていた。最前列に重吉がかけていた。いつもは離れたところにいる二人の看守が、きょうは左右について同じベンチにいる。ひろ子は、永田さんのうしろにかけた。ガランとした公判廷にいるのは、それぎりの人数であった。
 裁判長が読み上げているのは、判決言渡しの理由をのべた文章であった。きいていて、ひろ子は、奇怪な気がした。数年にわたる予審や公判は何のために行われたのであったろう。重吉や同志たちが事理をつくし、客観的状況を明らかにして抗争した事件の本質や、現象の内容は、その文章の中では、十二年前に書かれた一方的な告訴の理由とほとんど変更されていなかった。わずかにあくどい形容詞がとりのぞかれ、故意に計画的に行われた殺傷のように説明されていた部分が、偶発の事実として認められているばかりであった。重吉の努力や陳述がどうであろうと、よしんばそれがどんなに条理のとおったものであろうとも、この事件はこちらとしてこう扱うときめているのだ。そう云う頑固さが文章にみちている。
 ひろ子は、それを素朴としりながら、あらたに驚歎を感じた。仮にも大学を卒業し一個の良人であり父親でもある五十がらみの男が、こうも非条理の文章を読みあげ、それを妻子に見せられた姿であろうか、と。
 裁判長は、理由をよみ終った。主文と、区切って、声を高め、無期懲役に処す、と読んだ。つづけてすぐ事務的に、この判決に不服ならば一週間以内に控訴するように、と早口に云い添えて、裁判所関係のものは一斉に並んだ椅子から立ち上った。重吉も立った。ひろ子は、自分の知らないうちに起立して、こちらをふりかえった永田さんの実直な色白い顔がひどく紅潮しているのを見た。
 裁判長を先頭にして、一同ぞろぞろ控室に入って行く。その間に、
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