ふきながら叔母も上機嫌で台所から出て来た。
「駅にも、はア今ごろは新聞がついちょろうから、おばはんも大抵よろこんででありましょうよ」
天真爛漫な叔母のよろこびに、ひろ子は笑顔で応えることも出来なかった。縫子が、びっくりした表情でその顔を見直したほど沈痛な口調で呟いた。
「もうすこし様子をみてからでないと、何にも云えないわね」
立ったまま、ひろ子はくい入るように紙面に目を据えた。
「ああいうところでは世間とまるでちがった風にものごとが運ばれるんだから。……重吉さんは治安維持法一つじゃないんだもの――もり沢山な目にあわされているんだから……」
治安維持法関係の思想犯は解放される、とはっきり語られている数行の文字は、ひろ子の心を捩《ねじ》りあげた。重吉の事件は、党組織の中に特高課が計画的に何年間にも亙って入れていたスパイの摘発に関していた。偶然、スパイの一人が特異体質の男で、変死した。事件の性質から、この裁判は全く復讐的なものであった。公判ではじめて内容を知ったひろ子は、支配権力の法律というものが、本来の性質である公正だの面目などをもはやかまっていられないほど、兇猛になっているのをその目で見たし、耳できいた。道理は常識が判断するのとは、全く逆につけられた。重吉に対しては、ことさら苛酷で、同一の事件、同一の立場、経歴においては却ってより軽い重吉ばかりが、数人の同志たちの中で、一人だけ無期懲役を宣告された。一個の姓名のわきに、書き並べることが出来るかぎりの罪名がつらねられた。ひろ子には、その一つ一つが、重吉の躯をしばって一足ごとに重い響を立てる鉄の鎖の環の数として、その重みとして感じられた。事実をとりあげて、社会生活の歴史の中におこった一つの現実としてみれば、そこに何一つ犯罪らしいことは行われていなかった。政治的なたたかいの方法において卑劣であり、非道義的な腐敗を示したのは、スパイと、それを飼い、計画を与えた権力者たちの行動であった。人生に経験は浅いかもしれないが、それだけ無私に社会の不合理を改善しようと熱中する若者たちの試みは、歴史の当然の足どりであるものを罪人にするそもそもが、ひろ子には、納得しかねた。
この理不尽な法律が、有罪とすれば、たとえば重吉の母にしろ、やはりそれはわるいこと、こわいことと考えずにはいられなくて、そのなげきを和らげ、息子への信頼と希望をたもたせるために、ひろ子はこれまで十何年もの間、どんなに数々の言葉と心づくしを重ねて来ただろう。
今、治維法関係の思想犯は解放するという記事をよんで、ひろ子は自分にとって最後の、そしてもっとも耐えるに難い苛責がここに在ることを感じた。ポツダム宣言が受諾されたばかりのとき、ひろ子は、簡明率直な歓喜にうたれた。ふるえる思いで、このニュースをうけとった重吉の心のうちを思いやり、いつ帰れるか、いつ帰るだろう、網走へ迎えに行って、一緒に海をわたって帰って来て見たい。そう思いつめた。
時がたち、一ヵ月もすると、第一、ポツダム宣言を実行するにしては余りいかがわしい政府が居すわりつづける事に懐疑をもちはじめた。本当に、治安維持法は廃止され得るのだろうか。いつ? どのようにして? 永年苦しめられている日本のあらゆる進歩的な人々が、同じ感じをもった。そして、渇望のあらわれた数千万の目で、前途を見守っていたのである。
治安維持法という壁の、どこの扉があく、ということが明らかになった瞬間、ひろ子は、火焔のうちに救い出されず、のこされそうになっている我子を呼ぶ母親の気持になった。重吉は? 重吉は? みんな出て来る。だが、重吉は?
しかし、ひろ子は狂乱する相手を目前にもたなかった。重吉の、かえがたく、いとしい命を滅ぼそうとしている焔は、誰の目にもその危険をまざまざ示す焔の色としては映っていないのである。
ひろ子は、その新聞を手にもったまま、のろのろと、いつもの机の前へ戻った。叔母も縫子も気の毒げに黙って、ちりぢりにわかれた。
小一時間ほどして、
「縫ちゃん、いる?」
坐ったところから呼ぶひろ子の声がした。
「はい、はい。何ぞ用でありますか」
「すまないけれど郵便局まで行って貰えるかしら」
二つの書留速達と赤インクで書いた封筒を出した。
「ともかく塚本さんと永田さんに、頼もうと思うの。様子によっては永田さんにあっち迄行って貰って、いい加減なことを、されないようにしなくちゃね。そう思うでしょう?」
塚本さんというのは、一家のみんなも親密な重吉の幼ななじみの親友であった。永田さんは弁護士で、永年煩雑な事務的な仕事をたゆまず取りはからってくれた。これらの人々に、ひろ子は、新聞記事のことをかき、重吉に対しては具体的にどう取りはからわれようとしているのか、調べて貰うように依頼した。永田さんに
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