れているような東京であったのだ。
大阪からの新聞がやっと配達されるようになった。呉線まわりで運ばれた。山陽線は不通のままで、特にひろ子にとって困ったことは、広島までが山崩れ、トンネル崩壊でふさがっていることであった。
「困っちゃった。いつになったら三次《みよし》に行けるのかしら――私、あきらめちゃいないのよ」
「まあ、いそがんことでありますよ」
叔母が慰めた。
「たまには、ゆう[#「ゆう」に傍点]におしませ。いつ来ても、三日と泊っておられんじゃったもの。ゆう[#「ゆう」に傍点]におしませ」
「あっちで、かまわないかしら」
母のことが気にかかるのであった。田原の生活がしっくり感じられれば感じられるほど、ひろ子は、母もこちらに来させて、ぽってり柔かい掌でつかれた腰をなでられるような思いをさせたかった。
「今はつや子さんの妹が来ておってでありますもの、あちらもゆう[#「ゆう」に傍点]にありましょうよ」
呉線が、一部徒歩連絡で開通しはじめたことは、ひろ子を落付かなくさせた。早く、三次《みよし》へ行くなら行って調べて、ここを動き出したい心になった。遮断されていた鉄道地図の北のはてが、気がかりになりはじめた。
気休めと自分でもわかっているような網走への手紙を、大アスファルト通りの郵便局から書留にした。財布を手に握って、横丁をゆっくり来た。朝の十時すぎで、ほうき草の生えた魚やの竹垣のところに、きれいな白魚が干してある。新造の銀行が、そこだけの覚醒した抜けめなさで臆面もなくごたごたした角に立っているかなたに、あかちゃけた大笊《おおざる》の形で、工廠の鉄骨が見晴せた。そちらから、九月も末の海の風が吹いて来た。鈍青色の工廠の塀にかこまれた海岸の松並木が焦がされているのも遠目にみえた。その浜つづきに、板三枚ほどの幅の埠頭が入江に向って突出ていた。一見釣舟の出入りするようなその埠頭へ、夜になると、そっと軍人が集った。そして、人間魚雷が発射された。夜毎、そうして発射された。搭乗した特攻隊員で還るものは決してなかったし、大洋まで行ったものさえもなかった。人間魚雷の多くは粗製で途中で爆発し、沈んだ。しかし、夜になると、数人の者が、またそこに集った。住民たちは、それらのことをすっかり知っていた。が、雨戸をしめて、何も知らなかった。何故なら、その附近は厳重に立入禁止であったし、すべては、知ってはならないことなのであったから。
ここには人口二十万の大都市がつくられる筈であった。その架空の計画が崩れた途端、この土地に愛着をもたずに集められていた人々は、工廠官舎がまず空屋になるとともに、いそがしく退いて、三万にも足りない住民がのこった。崩されかけたまま工事中止になった崖の下、埋立てられ雑草がしげりっぱなしの田圃の真中まで延びて来て、そこでとぎれたままの大道路の横に、ちょぼちょぼとのこされた。そして、退職金をくいはじめた。
家の前通りへ曲って来ると、道に一尾、ひろ子が名を知らない白っぽい細長い形の魚が落ちていた。その魚は、漁師の籠からでも落ちたものらしく、活《いき》がよかった。海近い村の通りの落しものらしくて面白いと眺めていると、ひろ子を追いこして、背広に折カバンをもった男が、その落ちている魚のところへ通りがかった。その男は、すぐ落ちているものに目をとめた。立ちどまって、それを眺めた。それから、かがんで尻尾をもって魚をひろい上げ、やや離れたところに立っているひろ子に曖昧な笑い顔を向けた。
「活がよさそうだもの。持っていらっしゃれば……」
ひろ子が笑いながらそういうと、背広の男は、黙ったままもっと高く手をあげて、魚を見た。そして、遂に決心したように、その思いがけないひろいものを下げて行った。その男よりも先にはんてん着ではだしの爺さんが一人通った。魚は、もうそこに落ちていただろう。爺さんの眼ではそれが見えなかったのだろうか。ともかく、それを発見し、ひろ子の同意をもとめて臆病に笑ってひろって行ったのは、背広を着て、夏帽子をかぶり、書類鞄をかかえた男であった。
門口に、縫子が出ていた。ひろ子が見たのを待ちかねて、手招きをした。いそいで手招きした。
「なんなの」
「――はよ、おいでませ」
十四
いぶかしそうに入るひろ子の背をかかえるようにして、縫子は上り端まで一緒に来た。そこの畳の上に新聞がおいてあった。縫子は、それをひろげ、
「どうであります!」
一つの記事を指さした。
ひろ子は、名状出来ない衝動を感じてその記事をよんだ。ポツダム宣言によって、日本の治安維持法は近日中に撤廃され、治安維持法によって処罰されていた思想犯人はすべて釈放される、という報道なのであった。
「こりゃ、重吉さんも案外早うに帰られますで。――うれしやのう」
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