ろ子は、さわ子の若い女に珍しいそういう自然の故の沈厚さ、なだらかな故の威厳とでもいう雰囲気を愛した。ひろ子の精神をその底からつかんでいる近い未来への待ち望みには、希望の面にも不安の面にも、ポツダム宣言とか、刑法とか、あれこれの解釈、あれこれの条項というようなものが絡み合っていた。細かい事態の起伏、執拗な相互関係をたたみこんだものとして、明日が見えている。泳ぐ人が一つ一つのなみをのりこしながら、なお大きい海面のひろがりを全感覚の上にうけとっているように、ひろ子は、重吉が示すひろやかな展望を確信し、そこに身をすてまかせて、すべての細かい状況をしのぎ越して来た。
 さわ子が若さとともにもっている雰囲気には、ひろ子にとって必要な、精神の音楽のようなその諧音がきこえた。さわ子に感じるその調和は、従兄である重吉のもっている精神の諧音に似てもいる。
 ひろ子は、久しぶりに集注して数冊のアメリカの小説をよみ、そのノートをこしらえた。数年来、日本には、外国作品についてさえ、批評らしい批評は存在し得なかったのであった。
 ひろ子が、中庭ごしの室で、例の机に向いそろそろ五時かと思うころ、
「ただいま!」
 いかにもいそいで帰って来たというさわ子の声が、台所の土間の方で聞えた。
「お姉さんは?」
「おってじゃ」
 叔母が、おかしそうに答えている。
「どこへ、行かりょういの」
「ああ、よかった」
 しばらくして、ふだん着にきかえ、ふだん着では女教師というよりもゆったり大柄な娘らしいさわ子が、
「ただいま!」
 机のわきに膝をついた。
「御苦労さま。――どうだった?」
 すると、さわ子は、きもちよい栗色の顔をふり仰げ、
「ふ――」
と鼻声を立てて、淡白さと甘えを一緒に笑った。
「そんな工合なの? じゃまあお目出度う」
 さわ子の受持学級は、五年生であった。福島の田舎で国民学校に通っている伸一が五年生である。伸一たちは、八月十五日以後になっても、歴史や国語、地理をどう教えてよいかまだ分らないからという理由で、農事の作業ばかりやらされていた。
 農作は、さわ子の学級でもやっていて、薯のとり入れの配給をもってかえった。
「甘いけれど、貧弱なおいもでありますのう」
 姉の縫子はからかった。
「いいのは、みんな子供にやったんだもの。ほん、うれしそうじゃったよ」
 六年生になると、上級学校への内申問題があって教師の立場は複雑になった。
「私、とても、ようやれんもの。私、ほん、ほん、子供はすき。可愛うてしようがないの。ぴたっと注目して、先生のいうことをようきいているときの子供ら、涙が出るようじゃわ。父兄とは外交みたいで、子供ら教えるのと全くちがうじゃもの」
 さわ子の教えている国民学校は爆破されて、工廠が、宿舎につかっていた建物のせま苦しい食堂に五十三人もの小さくない学童がつめこまれていた。机もなく、椅子もなかった。板張の床の上にギッチリつまって坐った。ものを書く時、児童たちはつくばって、前の列の子供の尻に頭をぶつけて書かなければならなかった。
「ほん、あまりえろうて見ていられんの。三十分もたつと子供ら赤い顔して苦しうなって、よう落付いていられんのよ」
 さわ子たち若い教師は、校長に交渉し、工廠に交渉し、市にまで交渉して、保管されている床几を学童たちに使わせるように、そして、食堂の板壁をぬいて拡げ、そこを教室らしいものにするようにたのんだ。校長は工廠に責任をゆずり、工廠は、工廠所属のすべての建造物は、接収されるまでは市に移管されていると説明した。市役所へ、教員たちが行ったらば、市は大蔵省とかにその責任をゆだねられているとのことで、その大蔵省は東京にあるのであった。
 さわ子は、工夫して、時間割のやりくりをはじめた。半数の学童が算数をやるような時間に、半数は外へ出て体操や作業をするようにした。これは、教師の負担を多くすることであったが、子供らは救われた。今では、そこにつめこまれているすべての学級が、そのやりくりで運営されているのであった。
 田原ではラジオがどうやらきこえた。女ばかりの一家ではあるがみんなが、九時のニュースを大抵かかさずきいた。ある晩さわ子は読本をもって来て、ひろ子に相談した。大東京という題目で書かれた一章であった。
「こんなにいろいろ書いてあるけれど、今の東京はまるで違っちょろうと思うの。どの辺がのこっているのか、よう分らんのよ。子供らに、もう本当のこと教えなければ、すまんと思うの」
 福島にいる伸一が、丁度休業中の宿題にそこを出されていた。ひろ子は、地図を出して一九四五年のその夏、現実に在った東京を説明してやった。さわ子が、赤い麻の服を着て、姉の縫子につれられて、子供らしくむく犬のついたブックエンドを伊東屋で買って貰った頃、東京は、たしかに読本にかか
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