ないプラタナス並木の青葉。やたらに建物ばかり大きく建ててみたが、全部つかい切れないでその一階で不活溌に執務している郵便局。
ここにおびただしい人間が集められ、生きていた。しかし、生活らしい生活は無かった。五月頃から
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ニッポンよい国 花の国
七月八月 灰の国
九月十月 よその国
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そういううたが、街上でうたわれた。一台のバスにきっと憲兵が一人はのってはしりまわっている。その街路で、このうたが流行し、うたわれた。生活にかぶせられている愚弄と穢辱《わいじょく》に腹立つ感じが、人々の間に、そのうたの辛辣さが共感されたのであった。
十三
いかにも、熱心で向上心にみちた若い女教師がつかうらしく、その机の上は整理されていた。きちんとおかれた赤とブルーブラックのインク。硯箱、和英、英和と漢和の字書。まとめて綴られている書類。教育、心理、物象などの参考書。そのわきに少女っぽい花瓶がおかれ、白いえぞ菊の花が飾ってある。
反対側の縁側に、脚のこわれかけた食卓があり、そこを見ると、つつましくパフや紅刷毛があって、さわ子の化粧台となっている。ととのったなかに、若々しいととのわなさがこぼれて、愛嬌となっている部屋の空気は、ひろ子のこころをやわらげ、おちつかせた。
毎日仕事のためにつかわれ、そのために手入れされている机の居心地よさ。東京で、ひろ子が一人留守居していた弟の家のある地域は、一月下旬から空襲をうけはじめた。壕の中で食事をする生活では、机はそこにただ置かれているというばかりであった。食事をしたちゃぶ台で、茶碗を片よせて、重吉への手紙は書かれた。
福島の田舎の家では、机はあってなかった。ひろ子は、そこにいて、毎日、北のことばかり考え、青函連絡船の恢復を待ち、網走へ、網走へ、とばかり思いつめていたから。その思いは、云わば膝の上に板一枚のせただけでも、あらわせるものだったし、更にその板を奪われても、なお書きつづけられるようなものなのであったから。
古びてラックもはげたさわ子の机のまわりにある雰囲気は、きょうはきのうから生れ、明日はきょうの中からぬけ出てそうして続いてゆくものであるという生活の真実をそのままうけとって生きている者の単純な落付きであった。
半歳の間、東京での生活はサイレンの音ごとに苦しく遑しく寸断されていた。どっちを向いてみてもひろ子の、内心をつらぬいて流れている未来へのつよい確信と、調和するものを見出せない苦悩があった。
福島の暮しでは、ひろ子の明日への感覚は、船へ乗れる日を待ちかねるこころもちと不可分に結びつけられて、前のめりになったきりであった。そのひろ子を一員として営なまれている生活で、小枝のまるい、成熟した女としての眼は、明日が来ざるを得ないことを知ってはいるが、その明日の意義は彼女にとって、何であろうかときかれれば、困惑におちいる表情をただよわせていた。そこでの一家の生活は、大水に根太ごと浮いた一軒の家に似ていた。水の流れにつれて、その家は、形をくずさず、微かにまわりながら流されていた。何かにぶつかって急に崩れるまでそれはどうやらそれとしての形を保ったまま流されていた。
家の裏を、象徴的な軍用道路につっきられ、生計も破壊された重吉の家で、明日というものはむこうから、昨日と同じようでいて違ったあれこれの心配ごとを運んで、けなげにそれに立ち向っている母とつや子の生活に押しかけて来るもののようである。
さわ子の机の居まわりには、廃墟の堆積物の間から咲き出ている一本のたんぽぽのような風情があった。それは本当に小さい、単純な存在だけれども、その単純さの完璧は、満目の荒廃の中にあって通りがかるものを優しく感動させ、いのちあるものへの信頼をよみがえらせる。
さわ子は、空襲のときでも、上空の音響をきいていて、母さん、きょうはここにいていいね、と云うような気立ての娘であった。おのずからの若さばかりでなく、彼女の若さには、伸びようとする一筋の押えがたいものがこめられていた。それは、知らず知らずのうちにさわ子の生きてゆく日々に一貫した生活のよろこびをそよがせているのであった。さわ子が若さの中に感じている未来というものの図どりは、どういうものか。ひろ子とそういうことを話し合ったこともなかった。この前来た頃のさわ子は、海風に腕まで日やけした短い下げ髪の女学生であった。師範の寄宿舎でおなかがすくことを話して笑いこけていた。今度来てみれば、早春の枝のようにコチンとしていたさわ子のからだは、はればれと二十一歳の愛くるしさにみちて、声も美しく深まった。浅黒い面立ちのうちにあるおとなしさと熱意とは、つつましく身だしなみのよい若い女教師の表情に、独特な味わいを与えている。
ひ
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