とられた。女たちの瞳の中に複雑な警戒の色があらわれ、同時に、どっさりの若い娘たちが、機会を失うのをおそれるような遑《あわただ》しさで、入りこんで来た男たちの妻となった。だが、そういう偶然によって男たちの妻になって行くことを考えられない娘もたまになくはなかった。縫子はその一人であった。縫子の住む界隈にのこっているのは、ほんの小娘の十七八がらみのものばかりであった。二十四五になって家にいる娘は、縫子一人とさえ云えた。兄を出征させているその縫子は、空襲の余波で瓦がみんなずりこけたわが家の屋根に登ってそれを修復した。
新道が山の切通しを抜け切ったところに、新しい朝鮮人部落が出来ていた。長いきせる[#「きせる」に傍点]をくわえた二人の老人が、部落のはずれにしゃがんで、のんびりした声で話している。一人の方が珍しく紗の冠をつけて、黒い紐を黄麻の服の胸の前に垂らしていた。そこだけ眺めていると、いつか絵で見た京城かどこかの町はずれのような印象である。
田を埋め、山を切って一直線にのびて来た新道は、一里余来たところで東西に走る新設の大道路と丁字形に合した。トラックの轍《わだち》の跡でほじくりかえされている泥濘の道は、ここから堂々アスファルトの大道となって、工廠のぐるりにめぐらされ夫々の門に向っているのである。が、
「これからは、道がようなりますよ」
と縫子が教えた大道路へ出て、おどろきは却って深められた。
五年前、ひろ子が懐しく眺めてとおった山峡の三つの小さい沼はどこにもなくなって、赭むけにされた山頂に掘立小舎と官舎があり、その頂上に貯水池が、作られていた。そのすこし先に、発電所があった。そこは完全に爆破されて、廃墟になっている。道路ばたに、その発電所用らしい大きなモーターのようなものが厚いカンバス覆をかけられていくつも並べられていた。そのあたりは、右手がずっと工廠の灰草色の暗鬱な高塀だが、その高塀のところどころは崩れて、通行人の足もとまで松の樹がこけ出している。アスファルト大道と云うものの、その二十間道路の上には、どこもかしこも多量の泥が流れていて、勾配の計算が杜撰《ずさん》にされた証拠に、あるところでは、大水溜りがあった。
看板ばかりが大きい下宿屋、飲食店、あとは、××工務所出張所と云った風のバラック建が、大道路に向って並んでいる。八月十五日以来、これらのあらゆる箱の中から、利慾でうごめいていた人間の姿が消えた。ひろ子たちが歩いてゆく今、それらのある窓は板を釘づけにされたまま、或る建ものは看板をかけたまま空屋となっていた。前の歩道では、四五日前の暴風雨のせいか、それとも空襲のときにそうなったのか、根っ子をむき出してプラタナスの並木が数丁に亙ってなぎ倒されていた。倒れたままプラタナスの青葉は、泥によごれながら緑の葉をしげらせていた。
面白くない顔をした男たちが歩いて来る。一つのロータリーのところへ出て、ひろ子は思わず、
「何だろう!」
憤りを声に出した。
「まるで、こうじゃないの」
右手で、盤の上の駒を荒々しく刷きのける恰好をした。縫子の家は、そこからじきなのであったが、土着の住民たちの生活は、全く無視されて、横丁のどぶ端へせせこましく追いこまれている。ここでは清潔なアスファルト大通りの上は、迷彩がほどこされ、空虚に、一直線に工廠の門へ通じている。そのロータリーに、安田銀行が、目立つ角店を出していた。
「閉めてるの?」
「いいえ、やっちょります」
つきあたりに、古鉄の紙屑籠のようになった工廠の大廃墟がそびえているのであった。
この大通りから一歩横丁に曲ると、この十何年来ひろ子が愛着をもって時折歩いた林道、昔少年だった重吉が祭礼の列について走った村の道が、ぼろの布はじのように溝端に押しつけられてのこっていた。ガタガタになっているその町並の中でもまず目に入るのは、ガラス張りの近代風な銀行であった。それは、三和銀行であった。このせまい界隈に、いくつの銀行ができたというのだろう。工廠そのものはひしゃげた鉄屑の大集積になってしまった。しかし、これらの銀行はまだまだ生きて音も立てずにその活動をつづけている。
ロータリーのあたりから、旧い村町が蒙った変化を観れば、空襲でこの大工廠が跡かたもなく破壊されたことなどは、むしろ、かえって整理の方向への第一段のようにさえ思われた。人々の生活の安定は、とっくにその前に壊されていた。抵抗しがたい暴力がのたうちまわり、住民の生活をはねとばし、直線の大道路をひきまわし、しかも何一つとして完成させないで、突然その狂暴な力は虚脱した。みるすべての人々を絶望させる子供だましの壮大さと、虚勢の尻切れとんぼとがあった。無意味なものとなり、空虚なさびしさを示すばかりのアスファルト二十間道路。ひっくりかえって起すものの
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