ひろ子はユーモラスに、
「ああ、おどろいた」
と云った。
「二個の南瓜、裏道へ蹴出さる、と云う工合ね」
 ひきしめられていた神経の反動という笑いかたで、縫子も歩きながらときどき立ちどまって笑った。
「駄目よ、縫子、やめなさい。そんな笑いかたすると、体がぐにゃぐにゃして、頭痛がすることよ」
 二人は、部落にとってすべての悲しみと災害との象徴である軍用新道を歩いて行った。
 石田の家の裏あたりでは一応完成しているように見える新道は、しばらく行って部落を出はずれ、製材所の在る辺から、次第に、粗雑な工事の弱点をあらわしはじめた。バラスが十分入れられていない赭土《あかつち》道が、乱暴なトラックの往来で幾条も車軸がめりこむほどの深さにほじくりかえされている。新らしい切通しの左側が崩壊して、大きい立木が根こそぎ道端まですべり落ちていた。左右に切通しの石だたみを見上げてその下を通りぬけるとき、ひろ子は恐怖を感じた。地盤のゆるんだ崖にはられている高い石畳みが信用出来ないばかりでなかった。人目の届かないその山の上で、どんな工事をしかけていたのか、巨大な石柱が横に赭土の中から、宙に突出たままにされていた。
 切通しをぬけたところの谷間に、迷彩をほどこした二棟の飯場のような急ごしらえの建物が低く見えた。上の道の草堤に沿って、軍用トラックが八台、片方のタイヤを溝の中へおとして、雨ざらしのまま並べられている。
 新道の風景は、一丁ごとに荒々しく、人間ばなれして見えて来た。
 三方を低い山に囲まれた山懐の奥に、板のつき上げ窓が並んだ真新しい建物が四棟も建て捨てられてあった。立木を伐採したままの赭い地肌、真新らしいのにもう羽目がそりくりかえって、或るものは脱れている粗末な工事。西日ばかりは午後から暗くなるまでさし込むかわり、どんな夏の夕風もそこまでは決して入って来ることのなさそうな山懐に、せまい板のつき上げ窓が無数に並んで見えている光景は、通りがかりのものをさえ息苦しくした。
「あすこへ、人間を入れるつもりだったんだろうか!」
「徴用で地方から来る若い者の宿舎にするつもりでありましたろう」
「どこの?」
「そりゃ、工廠でありますよ」
 縫子は落付いた嫌悪にみちた声で答えた。
「この辺で工廠に関係ないものは一つもありません」
 それは、ありませんというより、あり得ませんという風に響くのであった。
 低く高く遠近の山を見晴らし、すがすがしい松林を眺め、四周《まわり》は温和な海近い山あいの自然だから、その真中に暴力的に出現している高い新道は、いかにも一路がむしゃらというこころもちを与えた。旧道は、この地域の人々が昔からその生活の必要につれておとなしく、細く、山裾をまわり、川に沿い、坂をのぼり下って踏みかため、ずっと低い地点にうねっているのであった。
「ひどいねえ」
 眺め眺めて、歩きながらひろ子は心から歎息した。
「人間の歩く道じゃあない」
 その歎息は、再び石田の家の内部をさえ、この一本の軍用道路が直線に貫いてしまったのだという悲痛な思いと結ばれた。
「ね、縫ちゃん、よくきいておくれ」
 ひろ子は悲しみにみちた眼の色で話した。
「つやちゃんはああいう人で、きっと、田原の人たちも不満足だろうと思う。きょうなんかだって普通じゃなかったわ、けれどもね、考えてみれば、あのひとは、お母さんがお選びになった人だからね、お母さんは自分で切ないたんびに、どんなにか自分の責任も感じていらっしゃるにちがいないのよ、そう思うだろう?」
「ええわかります」
「わたしはね、お母さんが辛がっていらっしゃるのを見ると、むらむらして来るのさ。あの、おばあちゃん、という声きくと、背中が強ばってしまうさ。でもね、わたしは、お母さんが辛棒していらっしゃる以上、もう決してとやかく云わないことにきめたの、わかる?」
「わたしも、おばさんが余りお気の毒で。……」
「お母さんの忍耐に敬意をはらって、もう決してかげでとやかくは云わないことにきめた。いい?」
「よろしうあります」
「つやちゃんの人生だって、ほんとに気の毒だもの。いくさなんて、何てひどいんだろう――女の神経でつやちゃんを刺戟しまい、ね?」
「ほんそうでありますのう」
 二人はだまってしばらく歩いた。永年の戦争は、この土地から、ここに生れ、ここに育った若者たちを、根こそぎよそへ運び出してしまった。その代り、見知らぬ他国から、これまでそこで生活し働いていた場所から否応いわせずひきはがされて来た男の群を、新道沿いの部落部落に氾濫させた。良人を奪われた妻たち、息子を失った母親たち、結婚しようとして相手をもち去られた娘たちは、夫々の思いで、その見知らぬ男の大群を見守った。男の群が膨脹するにつれて、物価が騰貴して行った。そして、どの男の眼にも、心の飢えが感じ
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