亡くなった父親宛にかかれている。二ヵ月あまり重吉からのたよりをうけとらず、こちらからの音信さえ絶たれているひろ子は、傾きかかるような親愛の思いで、丁寧に手紙をとり出して見た。原稿用紙にかかれている一通は、送金をたのんでいる文面であった。ほかの一通は、帰省をのばすことを知らしていた。三通目は、大学に入った重吉が上京して寄寓した親戚の家での生活を耐えがたく感じている書簡であった。若く、ひそかな誇りにみちている青年が、卑屈な境遇に抵抗しているその手紙の調子が、年月をへだてて読みかえしているひろ子のこころを動かした。全く金がなく、ただ青春と限りない未来とがあるだけだった二十一歳の重吉。今全く自由を喪って網走にやられている三十八歳の重吉。その重吉にのこされているのは何であろう。ひろ子は、やはりそこに限りない未来しか思うことが出来ないのであった。
こうして古い手紙などを見るにつけ、ラジオも新聞もなく、汽車さえ通らないここに暮していることが、激しい不安に感じられて来た。八月十五日このかた、日本に新しい潮がさしはじめた。それは全国の刑務所の塀をとりまいて流れはじめていた。思想犯のためには、決して動くことの予期されなかった扉の蝶番《ちょうつがい》を、きしませはじめているのであった。
縫子が、洗ものをかかえて新道から下りて来た。ひろ子がひろげているものを肩越しに見て、
「まあ」
と云った。
「きのう、わざわざのけておいたのに!」
ひろ子は、
「いい、いい」
と、小声で、なだめるように囁いた。扉は、いつ重吉のために開かれるであろうか。それは、ひろ子にとって生々しい切迫感であった。自分よりはるかに若いつや子にとって、待つべき人は永久に失われてしまっているという意識は、ひろ子の声を喉につまらせるのであった。
水が出て四日目に、二階での干しものは大体かたづいた。母親のセルをたたみながら、
「これであらかたすみましたのう」
すみ[#「すみ」に傍点]ましたというところにアクセントのつく地方の言葉で縫子が云った。
「夕方までに、わたし帰ります」
「そうする?」
ほんの一二泊のつもりで来た縫子は、水で足どめされたばかりか、窓をこえて逃げ出すときも荒っぽいあと片づけにも、力になりたすけてくれた。縫子をこの上はとめられなかった。
「わたしも一緒に行っちゃおうかな」
いくらかきまりの悪そうな子供っぽい眼つきをして、ひろ子が云い出した。ひろ子にそう感じさせる日々の空気があるのであった。
「そうおしませ! それがようあります。さわ子もどんなによろこぶかしれんし」
「ね、本当に行っちゃおう」
そんな話をしたのは午前中であった。昼飯につや子が上ってきて、干しものがとりこまれてあいている軒先の綱に目をとめた。
「はや、干しものすんででありますの」
「どうやら乾くだけは乾いたらしいわ。まだまだあとが一仕事だけれど……」
食後休みをしているときつや子が訊いた。
「縫子はん、こんどは、えらい目にあわせて、すみませなんだのう。いつお帰ってでありますか。――もうこちらはよろしうありますから」
ひろ子が苦笑いに笑い出した。
「もうよろしい、はあんまり正直ね」
「きょう、そろそろいにましょういの」
「ね、つや子さん、私縫子と一緒に田原へ行って来ようと思うけれど、どうかしら」
「ほん、不自由させつめて、すみませんの。田原じゃったら家もきれいし、御馳走もあってじゃから……」
「そういうわけじゃないのよ。汽車が不通でどうせ動けないからね。今のうち田原へ行って置こうと思うのよ」
「ほん、それがよろしうあります」
全く念頭になかった家のことだの食物のことだのにふれられて、ひろ子は閉口した。ひろ子がおばたちの家で欲したのは、罪のない一つ二つの笑いだけだったのに。――
三時頃、まだ決心しずにいるひろ子のところへ、つや子がわざわざあがって来た。そして、
「縫子はん、何時頃、おかえりますの」
待ちかねる表情をむき出しに尋ねた。
「――田原へはおいきませんの?」
「どうしたのさ、つやちゃん。そんなにせっつかなくたっていいのに――。お母さんに伺わなくちゃきめられないわ、そうでしょう?」
ひろ子は、まだところどころしか床板のはられていない階下へ下りて行った。戸棚の前で母に相談した。
「おいきませ、おいきませ。却ってそれがよろしうあります。ああいう気分の者じゃけ、ほん、いけんのう」
縫子とつれ立って出がけに、つや子は台所の土間にいた。
「じゃ、行って参ります」
こちらの廊下からひろ子が大きく声をかけたが、つや子は横顔を見せたまま返事をしなかった。
十二
何となし足早に小一丁ほど歩いて、段々ひろ子の気分は諧謔的になって来た。しまいに笑い出し、足どりも緩やかになって、
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