速さであった。母のきっぱりしたやりかたでこれらは進捗している。登代は、治郎をおぶって、重吉たちの子守をしてくれた婆さんの孫のところへ、守りをたのみに自分で行った。
 ひろ子は、二階で、愈々どっさりになって来た布類、衣類の干ものをしつづけた。しげの[#「しげの」に傍点]のつましい親たちが、何年か前にこしらえてやった派手すぎる銘仙の晴着や、結婚前の縫子の四季のよそゆき。紅絹《もみ》がにじみ、染色の流れた若い女ものは、拡げて一枚干すごとにひろ子に哀れを感じさせた。直次とつや子、子供らのものはほとんど一枚も濡れなかった。
 ひろ子が買って送った母の細かいお召の羽織がちぢみあがって黒く臭くなっている。それを軒下にほしていると、一段、一段、大儀そうな跫音をたてて母が二階へ上って来た。立ったままぐるりと、障子がはずされている両側の窓々と、その前にひろがる屋根の上とを眺めた。
「まあまあ、ようこんだけボロがあったもんじゃ」
 煙草を吸わない老年の母は、こういうときひろ子同様、いくらか手持無沙汰らしく、そこにただ坐って見まわしていたが、やがて、
「ひろ子はんも、遠方来たのにえらい目見せて、ほん気の毒でありますよ」
と云った。
「どうして? お母さん。わたしは一番役に立たないから、却ってすまないと思っているのに」
「あんたがいるけに、どんだけ心づよいかしれん」
 登代は、心に何か切ないものがあって、皆の働いている午後、こうしてひろ子一人の二階へ上って来た。二三日の間に憔悴《しょうすい》のあらわれた顔を新道へ向け、その長い道の上にちょこんと滑稽に干されている仏壇を眺めていたが、
「ほん、ふ[#「ふ」に傍点]のわるいことばかりつづくのう」
 しんから気落ちした調子で、涙を浮べた。
「直次は、ああいうことになる。水はつきよる――ほん。このうちは、ふ[#「ふ」に傍点]のええことはないようなうちになった」
 水の出た夜からきょうまで、登代もつや子も、直次がいたらば、ということはついぞ口に出さなかった。そういう歎きの間もないほど、臭い家、濡れた家財が女たちを追い立てた。疲れ切って今、西日の座敷で悲しくなっている母を、ひろ子は心から痛わしく思った。
「ほん、どうしていいやら、わたしには分らんようになった……」
「どうして? おかあさん」
 ひろ子は、おどろいて母の顔をのぞいた。
「これまでお母さんに分らないということは、一つだってなかったことよ。こんどだって、立派に、壁までもうつけはじめたじゃないの」
「つや子は、わたしのすることが気に入らんと、きつうおこりよって。おばあちゃんのように、人ばかり頼んでも、たべさせる御飯だけでもせんないいうてじゃが、男たのまいで、どう、なろうかいの。女ばかりで……」
 つや子は、そろそろとうちのものばかりで片づけて行こう、というのだった。入費もかからないように、と。しかし、実際にそれは不可能であった。つや子は、落ちた上瞼を蒼ませ、一つも笑わず、頬をひきつらせて、しげの[#「しげの」に傍点]や縫子に指図をして働き、母の意見をうけ入れなかった。子供たちが、不潔なぬれたべた土の往還や土間に、裸足で腹をむき出して遊んでいる。それを見かねて、せめて下駄をはかせて、と云っても、とり合わなかった。自分が裸足であった。直次に死なれた悲しみに重ねて起った災難を体のよわいつや子が、細い自分の二つの肩だけで担わなければならぬように思っている。つや子が良人のいない一家の主婦として自分の権威と責任とを感じれば感じるほど、母の登代が積極的な気質なのとは反対の気立てがつよくあらわれ、そこに切ない空気がかもされるのであった。
 ちょっとしたくつろぎの雰囲気も、瞼に剣の出たつや子の顔を見ると、おのずから消散した。気のつまる昼間の労働でつかれ果てた四人の老若の女が、燈心の明りでぼんやり照らされ、枕を並べて何の情趣もなく睡っている夜中、ひろ子の眼は冴え、心は重く圧せられた。
 山陽線、呉線、山陰線、どれも水害を蒙り開通の見込たたず、ひろ子は東京にかえるどころか縫子と直次の調査にゆく望みさえも失った。
 毎日一定の時刻になると、干しものだらけの部落のむこうを、線路沿いに徒歩連絡する旅客の群がバスケットを下げた子供まじりに通って行った。列車不通で、重吉への手紙もとだえた。大阪から配達される新聞も来なかったし、ラジオも水に漬って駄目になった。
 日毎に生活のしぼりがちぢまり、不自然な敏感さが生じ、ひろ子は自分まで、過労な女ばかりの心理葛藤に絡まりそうに感じた。
 沈んだこころもちで、裏に出ていたら、濡縁の下に大籠が一つ放り出してあった。濡れた反古がつまって腐りかけている。一つの封筒の上書の字が、ひろ子の目についた。それは、特徴のある大柄な重吉の筆蹟であった。石田隆吉様と、
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