ゆるごもくたが積って、自転車さえかついでやっとそこをふみ越してゆくような山が出来ていた。そこでも、巣箱ぐるみ鶏が数羽流されて来て、死んでいた。やはり体が白くて、鶏冠《とさか》の赤いレグホンの雌たちであった。
 部落の非常時用として木炭数十俵、薪が何百束か、配給所である石田の物置に保管されていた。薪は、夜じゅうまるでおがら[#「おがら」に傍点]にでもなっていたようにふわふわぞろぞろ物置の入口へ浮き出たまま水にひかれ、今は足の踏場もなければ、女手で直せる代ものでもなくなっている。
「こりゃ百束は流れよりましたで」
 登代が目分量で調べて云った。
「まだそこいらにひっかかっていやしませんかしら」
「なんで! いまごろまで……」
 そう云われて、ひろ子は生計のために配られている神経の迅さに思い当った。寺の本堂の掃除をして最後にひき上げたのは、母とひろ子だけであった。夜が白みかかるのを待ちかねて、まだすこしずつ降っている雨の中を沢田の一家三人も、子供を囲んでかたまって或るものは睡り、或るものはうつらうつらしている石田のみんなの横から、そっと起き出して出て行った。
 亡くなった石田の父親の写真が、額ぶちに入れて長押《なげし》に飾られていた。そのすこし下まで水があがった。
 しげの[#「しげの」に傍点]の同僚が手伝いに来てくれて、床下から、土間から一通りかきのけられたべた土が、忽ち背戸に盛上げられた。床板もはずして川で洗われなければならない。水を吸って化物のように重くなったすべての畳がもち出され、干されなければならなかった。米も濡れた。漬物も水の下になった。塩と味噌とは流れてしまった。永年棚の奥に煤けていた古い書類が、行李ごとしずくをたらしてもち出された。
 ひろ子は二階の窓から屋根へ出て、濡れた衣類、布類を干す役にまわった。今までどこにあったのか、いつ、何の役に立つのか、ひっそり歳月の流の底にしずんでいた一切の古布どもが、一片たりとも、びしゃびしゃに濡れて、臭くなってその存在を主張した。
 今朝は秋晴れというにふさわしい澄んだ青空の下の、部落の屋根屋根に女や男が出ていた。濡布団、衣類、何かの穀物をむしろの上にひろげたもの。往来にも部落じゅうのものが出て動いていた。みんな不機嫌で、黙って、忙しく、重いものをかついで川との間を往来しているのであった。
 午ごろ、あちこちから噂がつたわって来た。川下では家が何軒も流失した。人死もあった。トンネルが潰れて山陽線が不通となり、宮島近くの海軍療養所は崖ごと崩れて海へはまった。
「泣くにも涙も出んようじゃある!」
 母は働きながら、顔にかかるおくれ毛をかき上げてはつぶやいた。
 部落に立って、地勢を観ればこの出水の直接な原因が、軍用新道であることは明瞭だった。周防の深い山襞が、南に向って次第にゆるやかにわかれ、低まり、やがて砂の白い彎曲《わんきょく》した海岸となる。その手前、大きい水無瀬川の河床に沿うて東と西とに山並をひかえ、上《かみ》と下《しも》とのこの部落がある。部落の家々の屋根ほどの高さで、東の山並沿いに四五里ほどの間を軍用新道は堤防のように築かれた。従来は、山の奥から部落までの間に段々畑、田圃、沼、数限りない溝流れがあり、それは天然の水はけとなっていた。新道は、そういう細々として工合のよい自然の作用を一息に圧し潰し、朝鮮人夫のトロッコで、赤土を堤ともり上げ、砂利をぶちまいた。無計画な伐採、根っこほり、もう何年もなげやりのままの地方治水工事は、僅か数日の豪雨が山から水を押し出すのだが、高い丈夫な軍用新道が出来たおかげで、部落は何のてだてもなく、溝の底へ縦におかれたかたちになってしまった。これまでは、水無瀬川が氾濫して周囲の麦畑を水につけることはあっても、少し高みにある人家にさわりはなかった。今度は、西よりの川床が溢れるか溢れない時に、新道にせかれ、一時にどっとそこを越す奥山からの出水が、東からも全部落を洗い、水漬りにしたのであった。
 その新道の上に、石田の家では家じゅうの畳をもち出して干した。古びて貧しげな仏壇も崩れかけたまま持ち出された。杙をうちこみ、綱をはり、そこへ濡れしょぼれたものをかけた。
 部落じゅうが湯気を立てていたべた土の臭いを立てた。その日炊出しがされ、溺死した鶏が煮られた。

 登代は、昔からの顔なじみの広さと信用とで、翌日から大工をたのみ、男を数人よび集めた。登代らしい着実さで、先ず必要な便所から修繕がはじめられた。毎日、新道の上に畳が運び出され、綱に物が干され、その間に床下が清潔に洗われ、床板が洗われ、墜ちた壁土がかきのけられて、左官がよばれた。しげの[#「しげの」に傍点]や縫子が、左官屋の女房と一緒に手伝いに働いた。
 ひろ子からみれば、これらすべての手配はおどろくべき迅
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