た。危険はそこにあった。母と小さい二人の孫とは、安全に置かれなければならない。
 ひろ子はそれを、自分の責任として感じた。
「この辺で小舟なんかつかわないんでしょうね」
「そんなもの、あらせん」
 怒ったように沢田が答えた。
「ともかく、お母さんと小さい人は家を出ましょう」
 日頃剛毅な母が、しんから辛そうに、
「どうなろうかいの。こんだけ水がおごっちょるのに、どうで渡れよう」
 啜《すす》りあげるように叫んだ。
「もうええ、もうええ。家がこけたらここで死ぬるばかりいの」
 揺れ動く蝋燭の不安定な光に照らし出された二階の雑然とした一室に恐慌が充満した。
 ひろ子は東窓から、新道の方角を見た。目のとどく限り、こちら側の水嵩は低く、新道の上はうっすり白く見えた。
「裏へ出ましょう」
 とっさに、きめた。
「梯子はどこにあるの? つや子さん」
「おばあちゃん、梯子どこかいの」
 縫子が、
「この階段はずしてかけたらええ」
と云った。箱階段でとりはずしがきいた。
「それがいい。誠さんすみませんが、梯子、裏へかかるでしょう?」
 すぐ、父子が、はしごを窓越しにかき出して、屋根へ出た。
「つやちゃん、リュックに子供たちのものとお母さんと二人の着がえ入れて」
 母の書類の入った小カバンをひろ子のリュックにつめて、それは、縫子が背負った。つや子が昭夫を、しげの[#「しげの」に傍点]が治郎をおんぶした。
「大丈夫だから、ゆっくり落付いて。――すべらないように」
 沢田の細君が先頭に立ち、次に母、つや子、しげの[#「しげの」に傍点]と、窓をこして屋根へ出た。石田の家が幾棟にもわかれて建てられていて、しかも、台所の屋根がずっと東へつき出ていたのは仕合わせであった。その屋根の端から、裏の家の薯畑へ梯子がかかった。
「お姉さん、おでませ」
 ひろ子が、屋根へ出たあと、縫子が、ローソクを消し、皆の出たあとの窓の雨戸もひいて来た。
 這う形で瓦をわたって屋根の端へ出たとき、梯子の中段まで誠がのぼって来て、畑の中にいる父親とリレーで一人一人を扶けわたした。
「一寸深うありますが、おそれずに」
 ひろ子は、裸のまま濡れて微かに筋肉が震えている若い誠の腕につかまって、泥濘に脚をおろした。畑の柔かい土が、膝までもぐった。
「お母さんは?」
「あこにおられます、上の道は水がついちょりません」
 新道の上は、あたりまえな雨の水たまりがあるばかりだった。砂利を足の裏に痛くふみながら崖に沿って寺の境内へ登って行った。
 本堂に燈明がついて、もうそこに黒い人影が群れていた。朝鮮人の家族が多かった。石田の家の先に小川が二股になった三角地帯があり、そこに朝鮮人の農家があった。登代が様子をたずねた。
「はア家もなんもありゃせん」
 それは誇張ときこえないのであった。
 みんな、濡れたものをぬいで板じきの隅に一かためにおき、誠は、縫子が手当りばったり入れて来た女ものの浴衣を体にかけて、寺でかしてくれた毛布にくるまった。

        十一

 夜なかにあんな騒ぎがあったそれを信じかねるような快晴の朝になった。
 山門から下って新道の上へ出、それを横切って短いダラダラ坂を石田の家もある一かたまりの部落の往来へ入りかかって、ひろ子は惨澹たる有様におどろいた。とっつきの家では、壁をおとされている。一夜に竹こまいばかりの家になり前の往来に水漬り泥まびれになった家財道具、衣類が乱雑にとり出されている。泥田の中からひっぱり出したような子供の派手な友禅模様のチャンチャンが放り出してあるわきに、溺死した二羽の白色レグホンが、硬直した黄色い脚をつき出してころがされている。
 三角地にあった朝鮮人の農家はほとんど家の土台まで土地が崩壊した。そこを流れる川の水量はもう減っているが、杙《くい》のようなもの、コモ、あらゆる雑物でせかれている。四五人の年とった男たちが、それのとりのけ作業をやっていた。
 雨の深夜の空明りで二階から見おろした黒い水は、あんなに滔々《とうとう》と沢田の軒下を走っていた。かりものの駒下駄でひろ子が歩いてゆく今朝の街道は、あの水の下から地べたがあらわれて、部落じゅうのありとあらゆる臓物が、それぞれ家の表、裏、屋根の上まで拡げられていた。太陽に照らされて部落じゅうに不潔な水蒸気が立ちこめ、穢物のとけこんだべた土の臭気が昇っている。ゆうべのあの水嵩と、けさのこの往来と、ひろ子は、不自然に低いところを歩いているような奇妙な錯覚におそわれながら、一歩ごとに見なれない障碍物がころげ出て、見なれながらふだんと全く景色のちがう往還を通って来た。
 石田の店の先に、大きな角材がひっかかって道をふさいでいた。そこへ空のドラム罐、どこからか流されて来た古床几、箱、砕けた茶ダンス、木の枝をはじめ、あら
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