でも手ごうしに来ますけに、心配はいりませんで」
 この人は永年石田の前に住んでいる鍛冶やで、整備兵に行っていた二男も先頃帰って来ているのであった。
「どうでありましょうの、堰《せき》は切れよってでありますか」
「――今年はどうですこし様子がちがいよりますのう――じゃまた」
 ひろ子たちは、二階へ七輪とやかん[#「やかん」に傍点]と茶碗かごをもって上った。
「さあ、まあ一息せにゃ」
 はったい[#「はったい」に傍点]粉をかいた。
「おお、そうじゃ、燈心はどこにあったかいの」
「上の棚でありましょう」
「きっと今に停電しよるで」
 縫子が下へ行って、燈心と油と皿をもって来た。
「少し水がひきよってでありますよ」
「お母さん、横におなりませ」
 ひろ子が土地言葉で云った。
「もう大丈夫らしいから。あとは気をつけますから」
「みんなも、おやすみ……どれ」
 母は、着たままころりとしき並べた布団の端に横になった。
「ほん、ここはようない土地じゃのう」
 つや子も、スカートのまま二人の子供たちのわきに体をのばした。
 そのとき、電燈が消えた。
 縫子が見つけてもって上っていた蝋燭《ろうそく》に火をつけた。大きい影が、人々の横になっている枕もとの壁に映ってゆれた。帰れなくなって気の毒だけれども、縫子がいてよかった。ただ、一人の手がふえているというばかりでなく、ひろ子はこころもちの上でたすかっているところがあるのであった。
 雨はそのまま小ぶりになった。ひろ子も寝間着にかえて床の上に両脚をのばしていると、階下で水をこいで来る人の気配がし、階段の下まで来て、
「おごうはん、おごうはん。もうおよってでありますか」
 女の声がした。
「沢田のおばさんで」
 縫子が、上り口の襖をあけて顔を出した。
「おお縫子はん。水がさっきからおごりよりますで」
 その声でむっくり、母とつや子がおき上った。
「どれ、ほんに、まあ、せんないこといのう」
 つや子は、来合わせてくれた沢田の主人と息子にたのんで、一旦高いところへうつした衣裳箱を、今度は二階へあげて貰いはじめた。息も入れず、木の衣裳箱、次にトランク、それから行李、箪笥の引出しと、あげさせる。
 その手をあけさせないさしずの間に素早く、
「えろうすみませんが、ちょいと置かしてつかアせ」
と沢田の家の深く大きい壺もかき上げられた。それには麦、米、粉が入れられていた。上げられる箱やトランクを部屋のぐるりに置きながらひろ子は食糧が気になった。こうして着物ばかり保護しているが、食糧はどうなのだろう。東京で空襲があった間、市民が真先に心配し、守ったのは食糧であった。ひろ子が知っている範囲では石田の家の米味噌のおき場は前座の床であった。水が床をこせば、それらはもう安全でない。気づきが唇まで出かかった。が、ひろ子はそれをのみこんで、つや子が容赦なく指図して上げさせる衣類箱を、次から次へうけとっては積んだ。田舎では、食糧の心配がないのかもしれない。何とかなるものなのだろう。つや子が、嫁入りのときこしらえて来た衣類、直次の着ていたもの、子供らのための用意、それを濡すまいとする心理は皆にとっても自然なのだろう。
 箱をあげはじめて十分も経ったとき、益々水嵩がまして来て、階下は大騒動になった。
「それ! おごうはん、お上りませ、こけよりますで!」
 水の中へ倒れたガラスのこわれる音がした。タバコの空棚が浮き出して、ひっくりかえった。
「どうなろうかいの!」
 怒って絶望した母の声がした。こちらで箪笥が浮き出した。
 階段の上《あが》り端《はな》にさし出した裸ローソクの揺れる光が、つい目の下まで来ている水面を照らし出した。
「ハアここまでついちょる!」
 濡れた裸体を照らされながら、沢田の主人が、血相のかわった眼元でひろ子を見上げた。その股のつけ根までが水の中にあった。
 水に追いあげられる鼠のように、次々と二人の男たちも二階へあがって来た。
「こりゃ早う避難せまあじゃ、家がこけよる」
「そんなこともなかろうけれど……」
 上《かみ》から何か大きいものが流れて来たら、この家はもつまい。土台がいかにもわるい作りであるから。
 二人の子のねている布団の裾を濡れた土足のままふんで、七人の男女がまちまちの背たけでそこにつったった。ひろ子は、西窓の雨戸をあけ、往来を見ようとして、はじめて真からの恐怖にうたれた。往来はもう無かった。雲が切れてうすら明るいような深夜の空の下に黒く濡れた沢田の家のトタン屋根のひろい斜面があり、その軒下からわずか一尺ばかりのところを、道幅いっぱいに濁流が流れていた。黒く鈍く光りながら、もりあがる勢で流れている水は音を立てない。しかも絶対に人の命を奪う深さを示しつつ下へ下へと疾く流れている。その水面にまばらな雨脚が光っ
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