ね」
「それで結構でありますよ」
 石田の家は、街道に沿って埋立てたせまい三角地の上に窮屈に建て増し、建て増しされた家であった。廊下の中に庇合《ひあ》わいなどがあった。こんなに降ると、仏壇のおいてある戸棚の中が大もりになって、バシャバシャしぶいた。家じゅうそこここに、盥《たらい》、バケツがもち出された。昭夫と治郎とは、その盥をめぐり、バケツのまわりをかけまわっている。子供の叫び声と吹きつけられる大雨のザッ、ザザッという天地いっぱいの音をきいていると、ひろ子は子供時代を思い出した。大雨のときうちの中はいつもうす暗かった。すこしずつすかした雨戸の間から雨がふりこんで古い廊下がぬれていた。ひろ子と二人の弟たちとは、小さい三つの顔を一つずつ雨戸のすき間から覗けて、誰が一番長く雨に顔をたたかれて平気でいられるか、競争をした。それから、濡れている廊下を片足ですべった。昼間の薄ぐらさ、ひどい大雨の音。むし暑さ。それらは、稚いひろ子を興奮させ、どきつかせた。子供らのおまる[#「おまる」に傍点]のわきに、夜じゅう豆ランプがついていて、いつもぼーっと雨戸についた地震戸の棧を照していた。
 今にも消えそうで消えない電燈の下で、落付かない夕飯を終った。
 八時すぎになって、前の沢田へふるい[#「ふるい」に傍点]をかえして貰いに行ったつや子が、傘をたたみながら、あわただしく入って来た。
「おばあちゃん、川がおごりよりますて」
 おこったように、登代が、
「どうしょうぞ!」
と云った。
「二十年も水がおごるようなことはありゃせんじゃったのに」
「おばあちゃん、去年から、大さわぎしよったじゃありませんか。すっかりものあげて、わたしが来てからもう二度も水がおごりよったのに……」
「どうするの? もし物をうごかすなら、今のうちの方がいいんじゃないのかしら、夜中に騒いだりするといけないから」
 母は、半信半疑の面もちでしきりに雨音に耳を傾けた。
「――いくらか、ゆりたようじゃありますまいか」
「そうかしら」
 ひろ子は、出水に遭った経験が全くなかった。二百十日の颱風で、雨戸をしめた小箱のような一人住みの家の二階がふっとびそうで眠れない思いをしたことはある。けれども、水について、ひろ子はほんとに何にも分らなかった。今の気持だけからいうと、この家にまで浸水しそうに感じられなかった。その感じにしかし、何の根拠がないことも分っている。
 母をかこんで、ひろ子、二人の若い従妹たちが坐っている裏の板じきで、つや子は一人で働き出した。
「子供らをここへねかしたままで、どうなろう」
 登代が術なさそうに立ち上った。
 子供らを一人ずつ抱いて上り、二階に一同の寝具をうつした。降りて来てみると、つや子は物も云わず細い体で一枚一枚畳をめくり上げている。つや子の口をきかない働きかたには、何か体全体で示しているきびしさがあって、特にしげの[#「しげの」に傍点]を、おどおどさせた。
 女手ばかりであげた畳を、台の上につんだ。店の間の畳を、二つの樽に板をわたした上に積みあげられた。
「おばあちゃん、その辺に油の樽があったじゃろ」
 それも片づけられた。タバコ店の方に置かれていた衣裳箱を、縫子と何度にもかいて、高いところへ移した。
 ひろ子は、あぶなっかしく床板ばかりになった敷居の上にもんぺ姿で立って、働いているうちは耳につかなかった雨音が、また一段劇しくなったのをきいていた。すると、台所の方にいたしげの[#「しげの」に傍点]がけたたましく、
「あら! おばさま!」
と叫んだ。
「どうで?」
 登代がいそぎ足でそちらに行った。
「お! はアもう水がはいりよるで!」
 流元の方からうすい電燈の光をうけながら、音も立てず少しばかり水がひたひた入りこんで来ている。それはまるでこの家へだけ、ほんのぽっちりどこかの水があふれて入って来たばかりと云いたげな何気なさである。
 ひろ子は、余りおだやかな目の前のひたひた水を、出水の騒動に結びつけてうけとりかねた。その黒く光る水をぼっと眺めていると、忽ち、小さい昭夫の下駄が浮いて流れ出した。つづいて、土間にあった下駄という下駄がみんな浮き上って流れはじめた。そして、五分経つまいと思う間に土間は脛の高さに水漬りとなった。床へつくまでには、三寸ほどゆとりがあった。
 水嵩にばかり気をとられていた四人の女が、ふと気付いたとき、雨音はさっきよりおとなしくなっていた。
 ひろ子が楽観したように、
「大体この位ですむんじゃないのかしら」
と云った。
「そうなら大助かりじゃがのう」
 それぎり、水は高まって来なかった。シャツ一枚に猿股で沢田の主人が、往来越しにざぶざぶ水をこいで土間に入って来た。
「えらいことになりよりましたのう。早、畳あげてでありましたか。それはよかった。何
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