次第に暗くなる窓外をしきりに見ている前の席の男が、
「奥さん、あなた、どうされます?」
ひろ子に向ってきいた。
「さア、私は、その三原という駅まで歩いて、ベンチへでもねようと思って居ますけれど……」
「そんなことが出来るもんですか!」
とんでもないこととして、否定した。
「どんだけの人間がたまっているかしれんのに、第一、ベンチなんかあるものですか。あなた、どうされます?」
ひろ子と並んでかけている男に言葉をかけた。
「さあ――どうにかなりましょう。私は、仕事の関係で、この辺はよく往復していますから」
なるたけ、煩雑になりそうなことにかかわるまいとする調子で答えた。あから顔の、快活なところと弱気なところとが不思議にまじりあっている小柄な男は、須波が近づくにつれ、困却を示した。
「須波やったら、私の知っている家もあるし、多分そこで、宿やの世話をしてくれまっしゃろ。奥さん、わるいことは云わんから、一緒にその家へよって見ませんか」
熱心なすすめかたには、本当に、三原の駅でとまることなんか思いもよらないという状況がうかがわれた。一人旅をしているひろ子への親切とか、好奇心とかよりも、何かもっとその身に切迫した熱心さをあらわしている。
「その家も駅からすぐのところやさかい、もしお気に入らなんだら、駅へじき行かれます。若い男がいるさかえ、送らします」
徐行、徐行して、須波の駅へ列車が入り、どやどやと不満な旅客の大群がそれぞれの大荷物を背負ったり、さげたりして真暗な雨の車外に溢れ出したとき、ひろ子は、自分に道づれの出来ていたことをうれしく思った。
須波の駅は真暗闇で、たった一つ駅夫のもって歩くカンテラが、妙な高いところで小さい光の輪をつくっている。駅員が道の案内をするでもなければ、道しるべになる提灯がつけてあるでもない。雨の暗い駅にたった一つのそのにぶい光は乗客が影を重ねてこぼれ出た露天ホームまでは届かず、たちまち混乱がおこった。
「どっち行くんや!」
「見えへんじゃないか」
「こっちだ、こっちだ!」
「千代ちゃーん! 千代ちゃーん!」
あわてた女の叫び声が雨の暗闇をつんざいた。
ひろ子は、暗くて足もとが全く見えない中を滑りながら、人々が我がちに登ってゆく右手の崖の横木へ足をかけた。つれの男が、
「大丈夫ですか? わかりますか?」
ひろ子によりすがった。
「眼の見えんものは、こいうことになると実に困ります。――ここでいいんでしょうか」
法外に足かけの幅の遠い滑るだんだんをやっと崖上へ出た。そこは、人家の裏の細道らしく、小流れの音が片側にきこえた。雨にうたれながら荷物を背負った人々は、真暗闇の中に、びしゃびしゃ泥濘《ぬかるみ》の音を響かせ、
「こっちか?」
「まっすぐだ!」
「てんで見えやしねえ」
不機嫌に時々よびかわし、雨傘をさしたひろ子とつれとを追い越した。徒歩連絡らしい列は、どこにも出来ていなかった。足のはやい、力のつよい男たちが、自分たちだけでぐんぐん先へ行った。ひろ子のつれとなった男は、緑内障《あおそこひ》で、ほとんど両眼の視力が失われているのであった。
それをきいてひろ子にはその快活そうでひどく気弱な男のとりなしの万端が諒解された。ひろ子は脚がよわい。その男には視力がない。その二人が、それぞれの目的で、須波と三原の間の、雨の夜道を歩こうとしているのであった。壮年にかかわらず視力の弱い男が、一種の勘で、丈夫でないひろ子を道づれとして見つけたことを、面白くも思えた。
月夜ならばそれが桜の樹だとわかりそうな並木のある堤のような道も、アスファルトで舗装されている広い大通りも通って行く道はみんな暗かった。ひどい降りになった雨と、びしゃびしゃ通る素性の知れない夜の歩行者とに向って、人家の雨戸は用心ぶかくとざされていた。すきま洩れる明りばかりが、時々繁い雨脚とぬれて光る道とを照した。
ひろ子は、一度ならずトラックがこしらえた深い穴ぼこの水たまりにはまった。
「ひどい水たまりですよ」
「や、すみません」
道路の半分ばかりが、くずれているようなところもあった。
「そっち側は駄目ですよ、まるっきり崩れているから」
「――目のよう見えんというのは、ほんに難儀なものです、いちいち、ひとに云うてもおれんし……おかげさんで大助りします」
そんな工合に雨の中をひろ子とその道づれとは歩いて、一つの長い橋をわたった。何年か前、呉線まわりで東京へ帰ったことがあった。そのとき、呉のさきに、長い鉄橋があり、そこを通る汽車の窓から、同じ長さでむこうにかけられている橋の直線的な眺めが、大変美しかったおぼえがある。その長い美しい橋は河口にかけられていた。海は遠くなかった。吹き降りの雨を傘にうけかねて、上体を前かがみに、リュックを背負った二人がわた
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