農村
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)不作《ふさく》
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(例)彼等|唯一《ゆいつ》の
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(例)(一)[#「(一)」は縦中横]
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(一)[#「(一)」は縦中横]
冬枯の恐ろしく長い東北の小村は、四国あたりの其れにくらべると幾層倍か、貧しい哀れなものだと云う事は其の気候の事を思ってもじき分る事であるが、此の二年ほど、それどころかもっと長い間うるさくつきまとうて居る不作《ふさく》と、それにともなった身を切る様な不景気が此等みじめな村々を今一層はげしい生活難に陥れた。
企業的な性質に富んで居た此家《ここ》の先代が後半世を、非常に熱心に尽して居た極く小さな農村がこの東北の、かなり位置の好い処にある。
かなり高くて姿の美くしい山々――三春富士、安達太良山などに四方をかこまれて、三春だの、島だのと云う村々と隣り合い只一つこの附近の町へ通じる里道は此村のはずれ近く、長々と、白いとりとめのない姿を夏は暑くるしく、冬はひやびやと横わって居る。
町のステーションから、軒の低い町筋をすぎて、両方が田畑になってからの道は小半里、つきあたりに、有るかなしの、あまり見だてもない村役場は建って居る。和洋折衷の三階建で、役場と云うよりは「三階」と云う方が分りやすい。
この「三階」につく前少しの処に三つ並んで大池がある。並んで居る順に一番池二番池と呼ばれ、三番池は近頃まで三つの中で、一番美くしい、清げな池《いけ》であった。四五年前から、この村と町との間に水道を設ける事の計画が一番池が有るために起って居た。
町方《まちかた》から小半里の間かなりの傾斜を持って此村は高味にあるのでその一番池から水を引くと云う事は比較的費用も少しですみ、容易でも有ろうと云うのでその話はかなりの速力で進んで、男女の土方の「トロッコ」で散々囲りの若草はふみにじられ、池の周囲に堤を築かれ堤の内面はコンクリートでかためられ、外面には芝を植えられて「この池の魚釣る事無用」「みだりに入るべからず」と云う立札が立ち、役人のいる処や、標示板の立ったはもう二年ほど前の事である。
そのために、湖の様に、澄んで広々と、彼方《むこう》の青や紫の山々の裾までひろがって居る様にはてしなかった池も、にわかに取り澄まして、近づき難い、可愛げのない様子になって仕舞った。
その頃、かなり一番池とは、はなれて、その岸辺は葦でみたされ堤は見えない処で崩れ落ちて、思いもかけぬ処から水田に、はてしなく続いて居る。
この池の堤の裏を町に行く里道の道とも云うべきのが通じて居る。
何の人工も加えられず、有りのまま、なり行きのままにまかせられて居るので、池は、何時とはなし泥が増して今は、随分遠浅になって居る。
けれ共、その中央の深さは、その土地のものでさえ、馬鹿にはされないほどで、長い年月の間に茂り合った水草は小舟の櫂にすがりついて、行こうとする船足を引き止める。
粘土の浅黒い泥の上に水色の襞が静かにひたひたと打ちかかる。葦に混じって咲く月見草の、淡い黄の色はほのかにかすんで行く夕暮の中に、類もない美くしさを持って輝くのである。
堤に植えられた桜の枝々は濃く重なりあって深い影をつくり、夏、村から村へと旅をする商人はこの木影の道を喜ぶのである。
二番池の堤は即ち三番池の堤である。二番池の崩れた堤は、はるか遠く水田の中にかくれて完全に道のついて居る一方はいつとはなしに三番池の堤の一方を補って気のつかない間に、彼方に離れて仕舞う。
三番池は美くしい水草の白く咲く、青草の濃いのどやかな池であった。
この池に落ち込む、小川のせせらぎが絶えずその入口の浅瀬めいた処に小魚を呼び集めて、銀色の背の、素ばしこい魚等は、自由に楽しく藻の間を泳いで居た。この池は、この村唯一の慰場となって居た。
池の囲りを競馬場に仕たてて春と秋とは馬ばかりではなく、町々の、自転車乗が此処で勝負を決するのが常である。
夏は、若い者共《ものども》の泳場となり、冬は、諏訪の湖にあこがれる青年が、かなり厚く張る氷を滑るのであった。此等の池の美くしいのも只夏ばかりの僅かの間である。山々が緑になって、白雲は様々の形に舞う。
池の水は深く深くなだらかにゆらいで、小川と池の堺の浅瀬に小魚の銀の背が輝く。こうした生々した様子になると、赤茶色の水気多い長々と素なおな茎《くき》を持った菱《ひし》はその真白いささやかな花を、形の良い葉の間にのぞかせてただよう。
夕方は又ことに驚くべき美くしさを池の面と、山々、空の広いはてが表わす。
暑い日がやや沈みかけて、涼風立つ頃、今まで只一色大海の様に白い泡《あわ》をたぎらせて居た空はにわかに一変する。
細かに細かに千絶《ちぎ》れた雲の一つ一つが夕映の光を真面《まとも》に浴びて、紅に紫に青に輝き、その中に、黄金、白銀の糸をさえまじえて、思いもかけぬ、尊い、綾が織りなされるのである。
微風は、尊い色に輝く雲の片《きれ》を運び始める。
紅と、紫はスラスラとすれ違って藤色となり、真紅と黄はまじって焔と輝く。
暗の中に輝くダイアモンドの様に、鋭く青いキラメキをなげるものがあれば、静かに、おだやかに、夢の花の様に流れる。
一瞬の間も止まる事なく、上品に、優美に雲の群は微風に運ばれて、無窮の変化に身をまかせるのである。けれ共、紅の日輪が全く山の影に、姿をかくした時、川面から、夕もやは立ちのぼって、うす紫の色に四辺をとざす間もなく、真黒に浮出す連山のはざまから黄金の月輪は団々と差しのぼるのである。この時、無窮と見えた雲の運動は止まって、踏むさえ惜しい黄金の土地の上を、銀色の川が横《よ》ぎって、池の菱の花は、静かに、その瞼を閉ざすのである。
池の最も美わしい時、この池の尊さの染々と身にしみる時、それは只、真夏の夕べの、景色にばかり、池の真の価値は表われるのである。
此の村に置くには、あまりに美くしい池である。
山々の峰が白んで、それが次第に下へ下へと流れて来る毎に冬は近づくのである。
寒い――只寒いばかりの此の村の冬は只池にはる氷に若い者がなぐさめられるばかりである。
けれ共、三月四月と、春の早い都に花が咲く頃になると、山々は雪解《ゆきげ》の又変った美くしさを表わす。
快く晴れ渡った日、四方を取り巻いた山々の姿を見た時、誰でもその特長ある、目覚しさを讚美しないものはないのである。
雪の皆流れ落ちた処、まだ少し残った処、少しも消えない処、等によって皆異った色彩を持って居る。
皆雪の流れた処は、まだ少しもとけない処が雪独特の白さで輝くのに反して、濃い濃い紫色ににおうて居る。雪がまだらに、淡く残っている処は、いぶし銀の様に、くすんだ、たとえ様もない光を放して居る。始めて一眼見た時は、ただそれだけの色である。
けれ共、その、まばゆい色になれてなおよくその山々を見つめると、雲の厚味により、山自身の凹凸により、又は山々の重なり工合によってその一部分一部分の細かい色が一つとして同じのは無いのを見出すのである。
この様に、東北にはまれな、しなやかな自然の美は此村に沢山与えられたけれ共、物質の満足、精神的の美と云うものは、此村には十分与えられてない。絶えず、不自由に追い掛けられて、みじめな、苦しい生活をしなければならない理由《わけ》。それは、その村人自身にならなければ分らないけれ共、気候が悪いし、冬の恐ろしく長い事、諸国人の寄合って居る事、豊饒な畑地の少ない事、機械農業の行われない事、などは、他国者でも分ることである。
明治の初年、この村が始めて開墾されてから、変った生活を求めて諸国から集ったあまり富んでいない幾組かの家族は、あまり良いめぐり合わせにも会わないで、今に至って居るのである。
米沢人はその中での勢力のある部に属して居る。日常の事はさほどの事はないけれ共、少し重立った事になると生国の違いと云う感じが都の者ほどさっぱりとは行かず、とけがたいわだかまりになってお互《たがい》の一致を欠くのであった。
土地の大抵は粘土めいたもので赤土と石ころが多く、乾いた処は眼も鼻も埋めて仕舞いそうな塵となって舞いのぼり、湿った処はいつまでも、水を吸収する事なくて不愉快な臭いを発したり、昆虫の住居になったりする。長年耕された土地でさえも肥料の入るわりに良い結果は表れない様な地質である、その上に耕すのも、ならすのも、収獲するにも、工業的《こうぎょうてき》の機械を用うる事はなく、鍬《くわ》、鋤《すき》、鎌《かま》などが彼等|唯一《ゆいつ》の用具であくまでもそれを保守して、新らしい機械などには見向きもしない有様で、それだから機械などはほとんど村に入り込んでは居ない様子である。
地質がよくないとは云え、機械農業が発達さえすれば、今までより少しは多く収獲が有るのは定《き》まった事だろうのに、農民は、発明される機械を試用する気にならず、又其を十分利用するだけ、序[#「序」に「(ママ)」の注記]的な頭脳は無いものの方が多いのでもあろう。
斯うして、荒れやすい土を耕し、意地《いじ》の悪い冬枯と戦うにも只、昔からの伝習だの、自分の小さい経験などを頼む事ほかしない。此処いらの純農民は、随分と貧しい生活をして居る。
養蚕《ようさん》は比較的一般に行われて、随って桑畑も多い。けれ共、大業にするのではなく、副業《ふくぎょう》にしているのだからその利益もしれたものである。
一年の間、春、夏、秋、と三度蚕を飼ってあがる利益《みいり》と、自分の畑のものを売った利益などで純農民は生計を立てて行かなければならない。
表面上は立派に自由の権利を持って居る様では有るけれ共、内実は、まるでロシアの農奴の少し良い位で地主の畑地を耕作して、身内からしぼり出した血と膏は大抵地主に吸いとられ、年貢に納め残した米、麦、又は甘藷、馬鈴薯、蕎麦粉《そばこ》などを主要な食料にして居るのである。
小半里離れた町方に彼等は主に地主を持って居た。この町はこの頃になって急に目覚ましい活動をはじめた町で、金銭の活動はにわかに、せわしくなって来ても依然として、それ等金銭をあつかうものの頭は、金銭につかわれる方なので、驚くほど物質的な、金《かね》にきたない町になって来た。
そのためこの四五年と云うもの只金ばかりに気を取られて居る町の地主等は、年貢米の一斤一合の事までひどくせめたてて、元《もと》、半俵位の事ならそうひどい事も云わず来年の分に廻しその補いに、野菜や麦を持って来させて居た自分等の心をあやしんでいるらしい様になって来たのである。
四五年つづく不作と、地主等の悲しい心変りによって苦しむ小作人は自分が小作人である事をつくづくと悲しがって居た。
独立する資力がないばっかりに、地主の思うがままにみじめな生活をさせられて子供の教育も出来ず、二度とない一生を地主に操られて、働きへらして飼殺し同様にさせられて仕舞う。
小作をしないで暮すと云う事は農民皆が皆の希望だろうけれ共、地主に飼殺しにされた親達は又それと同様の運命を子供に遺して、その苦しい境遇から脱し得るだけの能力は与えなかった。
彼等、哀れな農民の上に運命の神は絶大の権威《けんい》を持って居るのである。
泣く泣く堪えきれない不満を心に抱きながらも、暗い運命に随うよりほか仕方はないのである。
追いかけ追いかけの貧から逃れられない哀れな老爺が、夏の八月、テラテラとした太陽に背を焼かれながら小石のまじったやせた畑地をカチリカチリと耕して居る。其のやせた細腕が疲れるとどこともかまわず身をなげして骨だらけの胸を拡げたり、せばめたりして寝入って仕舞う、そのわきから掘り返された土は白くホコホコに乾いて行く様子は都会の生活をするものの想像できないみじめな有様で、又東北のやせた地に耕作する小作男を見ないものには味われない、哀れな、見る者の胸さえ迫って来る様な痛々しいものであ
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