四肩(二つの手桶を天秤棒にかけたのを一肩と云う)も汲んで行ったり、これから四五日の薪をすっかりこしらえて行ったのもあった。けれ共中には、
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「悪いものが降りやしただない。
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と炉端に上って下らない事をしゃべって餅だけはあまる程食べて何もしずにそのまんまスタスタ帰って仕舞うものがあった。
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「あの男様《とっさま》あ、餅ばかり振舞われに来たのだし、塵っぱ一本、拾うでなしに帰りやしたぞえ。
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 そんな餅食に来た男があると女中は云って居た。斯うして暫のうちに餅は二つ三つほか千切ったのが残らなくなり、やる物を入れた箱の中から三四本の手拭が出て行ったのである。
 夕方近くまで吹雪が晴れ渡らなかったので、その日は一日、日の目を見ない、じめじめしたわびしい日を送って仕舞った。祖母は夜までも、炬燵の中で「はぎ物」をして居る。私は東京へ、今年の初雪を知らせてやる。手紙の中へ、
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「私は今何故、こんな時に、こんな処へ来たかと、自分の物ずきな心がうらめしい。寒には堪えられても、口に云えないこの淋しさには、到底打ち勝てそうにもない気がします。
 まあ考えても御覧なさいよ。今頃から雪は降って小一日吹雪は止まない。その中で私は東京に居る時の様に更けるまで息をはずませて話合う様な人はたった一人もない山中に、いつもいつも待遠がって居る夜が来るやいなや、寝床へもぐり込む。寒いのでそちらの様に長起きが出来ないんです。つくづく東京が恋しい。平常私は『自分は、手足は山の中に暮しても頭だけ――私の仕事なり考えなりは大都会の中央で活動して居なければ満足出来ないだろう』と云ってましたが、尚更、私は、そう云う人間である事が明かになって来ました。帰りたい、ほんとうに帰りたい。けれ共、東京で桜が末になるまで、冬の寒さにつかまえられて、雪の積った中に祖母を見す見す残して行く事を考えれば、そうも出来ない。皆気が利かないから私でも居なければ、暖まらない時に湯タンポを入れたり、夜着の肩を打《たた》いてあげるのは一人も居ないんですものねえ。
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と書いて友達に、家へは、キニイネの丸薬とその処方を送って呉れる様に云ってやる。私はすっかり冬籠りの仕度をするためにその他、毛足袋だの何だのも云ってやった。女中は炬燵の中で、松の枝に下った「つらら」に砂糖をつけてカリリ、カリリとたべて居た。

   (六)[#「(六)」は縦中横]

 雪解《ゆきげ》で一しお寒さがはげしい。
 キラキラしい太陽が面《かお》を出したので雪からは少しずつ水蒸気が立って行くのが見える。あたりが何となし、うるおって、ハアッと息を遠くから吹きかけた鏡の面の様な空合になって居る。太陽は美くしい色に輝いて居るけれ共、寒さはひどいので、小川の面から息が立って居る。土地は汚なくなって行くばかりである。昨日、一日休んだ馬が、パカッ、パカッと勢よく、町へと里道を小さい穴だらけにし、草鞋の両方へ、泥をとました足跡で、道はゴタゴタになって仕舞い、鶏が、馬の蹄の跡の穴の泥水みたいな中へ足を踏み込んで、腹まで羽根をどろでかたまらせて居る。
 小川の水かさが少しました。三番池には、非常に沢山の水鳥が群れて居る。五、六羽白い色のも見える。何だか分らない。大抵は鴨位の者であろうが、白いのだけは流石にもっと好いものらしく見える。
 昼近くなってから甚五郎爺が一羽まだバタバタして居る鴨をさげて来た。田の中に昨夜から「繩落し」を掛けてとったのだと云った。大方彼の群の一羽で有っただろうと想って見る。非常に羽色が美くしい。頸の、群青色等は又とないほど輝いて、そのまんま私の頸に巻きつけたいほどだ。足なんかもさえた卵色をして居る。
 食べるのは惜しいからこのまんま飼おうと云ったが聞き入れられなかった。甚五郎爺も、あまり食物がないからとってきたのにたべないなら又放して仕舞うとさっさと足を握って裏へつれて行って仕舞った。
 鴨の肉は好いて居ない。何だか鴨くさい臭がする様だ。鴨雑煮をすると云って居る。私は裏へ行かない。こしらえるのを見ては一切だって喉を通るものではない。甚五郎爺は薬だと云って鳥の「きも」を出すとすぐ生《なま》のまんまのむと聞いて、私は喉へ丸《たま》が上って来るようだった。鳥にも「きも」なんてあるものかしらん、私は獣ほかない様な気がして居た。昨日の雪見舞の者達に皆食べられて餅がないので女中は源平団子にもちごめと引きかえに餅をとりに行った。東京の鴨の様に臭がない。
 お八つ頃、例の芝居ずきの御婆さんを呼んでやる。結構だ結構だと云いながら、年に合わしては随分沢山たべて、こないだ見て来た多助の芝居の話をした。多助が「青」と別れる処をどれほど感動したものか、泣きながら、
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「貴方――芝居は青の別れに限りやすぞい、別れたくないって、多助の頬に、自分の頬をすりつけてない。
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と云った。十二時頃、小一里も歩いたので風邪を引いたと云って、赤坊の様にケン、ケンと云う「セキ」をして居た。鴨の肉のただ煮たのを小さな皿に持って行った。
「粥でも作るつもりだかし」と祖母は笑って居た。
 湯のたて廻しと云う事が行われて居る。今日は誰の家で湯をたてると、あすは、誰の家でたてると順をきめて、湯をたてる番の人の家へもらいに行くのである。家で湯をたてると彼の小学校長の家族を始め、あすこの婆さん、此処の女房と、湯をもらいに来る。自分の番になるのを待って居るものや、もう上ったものは炉の廻りに集って、茶をのみのみ世間話をして居る。血統も分らない――又どんな病気を持ってこうして居るかもしれない人達を、自家の湯へ入れると云う事は随分と危険な事だ。外で行水《ぎょうずい》をつかえなくなってからだけでもたててる。小銭湯の様な特別の湯槽をだれかの家へあずけて、湯のないものは、その家の家族のとは違った湯槽に入る様にしたらいいだろうのにと祖母にも云ったけれ共、湯のたて廻しなどが平常気の置けない交際機関になって居るので、今急にそれをやめれば皆が不自由するし、又、悪く思われるからと云って居た。祖母と私は一番先へ入る事にきめて居るのである。
 そんな事をしない東京から来て見ると何だか不安心だ。銭湯を知らない私は、温泉でさえ気味が悪い様でいやがって居るのだもの、新らしくなりもしず、汚れた水を吸い込む木の槽の肌にはどんな汚れが誰から出て入って居るだろうと思うといくら新らしい湯に最初入ってもいやである。とうとう私の居る間は立て廻しから抜けてもらう事にしたけれ共、小学校の先生の家の人や、あの「おともさん」は立つ毎に来て入って行った。これ共はこばむ事の出来にくい人達だった。その晩は校長が手拭をドテラの上から帯の様にして湯に入りに来た。
 十五分もかからないで上ると私共の炬燵に入って、会津の方の女の話をした。非常な働き者で、東京の娘達の様に箸より重いものは持てない様には必[#「必」に「(ママ)」の注記]してして居ないと殊更、私にあてつけでもする様な口調で云った。先生と云う臭味がこんな時プーンとする。私はだまってきいて居る。祖母はおつとめにじいっとしてきいて居るらしく時々妙な質問を出して先生をどぎまぎさせて居た。私がだまって居るので、いろいろの事に話が渡って、しまいには、女に女学校以上の学問を養わせる事や、専門的な智能を養わせる必要はない。学問などをするから男を馬鹿にしてかかるなどと云って居た。時々、私をかあっとさせる様な事を云う。まるで私とすっかり違う頭の人に自分の考えを発表した処で無意味だし、又それほど抜けても居なかったから、時々いやあな顔をしながらも一言も返さずにだまって只きいて居た。一段話すと、祖母は梅の汁《つゆ》が自然に発酵した酒を進めた。私も一口なめて見たけれ共、舌の先がやけそうにヒリッとした。随分つよいらしかった。
 校長は小さい猪口に三四杯飲んですっかり機嫌になり、自分等が若かった時、寄宿舎で夜中に食物をとりに行って小使だと思って舎監にソーット醤油を呉れと云って、それなり懐に一杯薯を抱いてつかまった事を、顔中の和毛をそよがせながら話した。そして炬燵布団に、髯もじゃの顔を押しつけて居眠りを始めた。祖母は笑いながらゆり起した時、見事な髯に白く「よだれ」のしずくがたった一つつつましげに輝いて居た。その「よだれ」のしずくはすっかり私の気持をやわらげて仕舞った。
 翌日とその翌日とかかってすっかり雪解はすんで仕舞った。正月も迫って来た。けれ共、新、旧と二つの暦をつかって居る此村では新と旧と二度正月があるので、両方ともが割合にざっとすまされるのである。別にこれぞと云うほどの事も、この村ではして居ないとは云うものの、荷馬の背に新らしい下駄や一寸した家具がつんであるのも、やっぱり、あらそわれない暮らしい気持がただよって居る。ほんとうに、暮の気持がただよって居ると云う位のもので、あの一番せわしない、掛取りや、来年の準備に必要なものを景気をつけて売って居る商人やの姿が見えないから、いかにもしずかに自然に年の暮が立って行く。十二月の末、それはこの上なく日の短かい寒い時分なので、正月の買物に町へ出掛けるものさえ少ないのである。
 東京の友達からはクリスマスの事等を云ってよこした。ほんとにもうクリスマスも「あさって」になった事だと思うと、今更、正月が近い内になったのに驚く。東京に居ればこそ、小さい兄弟に、贈物をしたり、外《ほか》からもらったりしてクリスマスを忘れる事はないけれ共、此んな処に来て居るとクリスマスの「ク」の字さえ口に出ないので、私も忘れ気味になって居た。暮を知らない様に静かな此村で、年越しをするのもおだやかで好いだろう等と思う。
 町へ雑誌と、書く紙を買いに行こうと思いながら、寒さにめげて一日一日とのばして居たが、歳暮売出しを町の店々は始め、少しは目先が変って居るからと云う事で、芝居ずきの「御ともさん」とお繁婆と女中とで午前の日が上りきって、暖い時に出かけた。
 頸巻《えりまき》はいくら毛でも鼻の先がひどくつめたい。祖母は、足袋の先に真綿を入れて呉れたので足はいくらか暖かい。一本筋の高い処にある道を、静かながら北の山からすべり落ちて来る風にあらいざらい吹きさられて、足の遅《のろ》いお伴《つれ》と一緒に、私はもうちっと早く歩きたいもんだなあと思いながら歩いて行く。道はまだ、こちこちに凍った様になって居るので下駄が少し強くあたると破れそうな音をたてる。二枚重ねた銘仙の着物の裾がボタボタと重い。頭巾をかぶって来ればよかったとも思った。「御ともさん」は東京弁と、此村と山形――米沢の言葉をとりまぜた言葉でしきりに私に話しかける。芝居は好きか、どの役者が一番|好《い》いか、東京では、どんな外題がもてるか。婆さんの話と云えば芝居の事ばかりである。けれ共、私の返事は皆婆さんには満足を与えなかった。何故なら、お婆さんのきく様な気持で好い役者、悪い役者に気をつけた事もなし、毎日の事に追われて居て、換り毎に出かけるほどの時を持って居ないから処々での出しものも知らないのが多い。
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「東京に居なさるから、毎日毎日芝居見てなさるべえと思って……。お嬢さんなざあ、御しゃらく(御めかし)して毎日毎日遊んで居なされる身分さ。
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 婆さんは、私の家に、金のなる木があって、私は不死の生をさずかって居るとでも思って居る様な口調で、スラスラと「何のこれしきの事」と云う調子で云う。
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「ほんにそうだのし。
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 浅黄の木綿の大風呂敷を斜に背負って居るお繁婆さんは、背のものをゆすりあげて合づちを打つ。
 この人達は何故、私がそんな立派な御身分に見えるのだろうと思う。あんまり平常、尊がられもしず、往来を歩いて、私を知って見るものは一人もなく、自身も亦、知られるべき筈のものでないと思って居る私が、此
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