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と云うのがいやに耳ざわりに聞えた。辛かった事、面白かった事を細々かぞえたてて話したのが祖母には耳珍らしくてよかったらしい。
 冬の最中に、銃の手入をするのが一番つらかったと云った、赤切《あかぎ》れから血がながれて一生懸命に掃除をする銃身を片はじから汚して行く時の哀《なさけ》なさと云うものはない。銃を持って居る手がしびれ、靴の中の足がこごえて、地面のでこぼこにぶつかってころんだり銃を落したりする。
 祖母は涙ぐんできいて居た。来る人も少ないので祖母は長い事引きとめ、いろいろ食べさせたり、飲ませたりして、反物をお祝だと云ってやった。涙を襦袢の袖で拭きながら、
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「お前もまあこれで一人前の男になったと云うものだ。これからは嫁さんさがしにせわしい事だねえ。
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と云うと男は、
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「何そんな…………
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と云って座りなおした。祖母は自分の身内のものの様な、頼《たのも》しい様な気がして居るのだろうなどと思って私は見て居る。学校仲間、在郷軍人、親類などから祝によばれたり呼んだりするので母親はせわしがってるとうれしそうに云って行った。
 高橋の息子が帰った頃から又寒さがました様で、段々空気は荒く、風の吹き様もなみではなくなって来た。祖母は、吹雪の時の用心に屋根瓦を見させたり、そこいらの納屋の壁や、野菜を入れて置く穴倉に手を入れさせた。毎朝来るトタン屋は、風呂場の樋《とよ》だの屋根だのの手入をして居る。いかにも手が鈍い。東京の職人も煙草を吸う時間の永いには驚く様だけれ共、まして此処いらのはひどい。弁当は持って来ない。縁側に腰をかけて出して呉れる膳に向って暖ったかい飯を食べる。何故職人に平常《ふだん》の時膳を出してやるのだと聞くと此処らでは少しゆとりのある家では、皆昼を出すのだと云う事だ。あんまり職人につくして居る様な気がする。
 トタン屋も来ない様になり、家の中は一層ひっそり閑《かん》として、私が大股に縁側を歩く音が、気の引ける様に、お寺の様に高い天井に響く。持って来た本もよみつくした私は、一日の中、半分私が顔を知らないうちに没した先代が、細筆でこまごまと書き写した、戦記、旅行記、物語りの本に読みふけって居る。若しそうでない時は、炬燵で祖母ととりとめもない世間話しや、祖母の若い時分の話をきくのである。風は日一日とすさんで雪の降りつもった山からは、その白さが下へ下へと流れて来る。
 始めての雪の降った前の晩の寒かった事と云ったら、私でさえ、床の中でガタガタするほどだった。
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「寒くはないか。
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ときく祖母の声さえ震えて居たので私は女中に湯タンポを入れさせた。
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「お前が居なければ、私が云うまで気をつけて呉れるものはない。
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 祖母が涙声で云った時、私は、急に母の居る処へ飛んで帰りたいほどの、どうしていいか分らない、悲しい様な淋しい様な気持になった。私は「何故こんな処へ来たのか」と悔む様な気持になりながら涙をこぼして眠ってしまった。目を覚した時は二時頃だったろう。
 あんまり風がはげしい。雨や風のひどい時は、恐ろしい様な気持がして眠られない私はきっと、この風の音に眼をさまされたのだろう。障子のガラスについた小障子をあけて雨戸のガラスをすかして見ると、灰を吹きつける様に白い粉が吹きつけると一緒に、ガタンガタンと戸がゆすれる。こんなにもひどい吹雪を見た事はなかった。始めの間は珍らしい気がして見て居たけれ共、段々時が立つにしたがって私は恐ろしくなって来た。私は此上なくいやなのだけれ共、祖母がきかないので、部屋の中は真暗である。二つの床をぴったりとよせて枕屏風が暗い中でも何か違った暗さに私達を取りかこんで居る。
 一尺一寸位の四角な面に絶えず白い粉が乱れかかって、戸は今にもたおれそうにガタガタきしんで、はめ込んだガラスの一種異ったビリビリ云う音が寝しずまった家中に響きわたる。下らないものでも見つめて居ると恐ろしくなるか又は嬉しくなるものだと私はいつでも感じて居る。明るい中でみつめるものの総ては土でも木でも色々な日用品でも皆、自然《ひとりで》に微笑が湧きのぼる様な柔い気持になる。けれ共夜の暗い中で物を見つめて居る時の恐ろしい事と云ったら、もう躰がすくんでしまう様な、顔を掩わずには居られない様になる。私はじいっと眼を据えて白い粉雪の飛びかかる四角い処を見て居るうちに段々その四角がひろがって行き、飛び散る白いものも多くなり、それにつれて戸の鳴《な》る音さえ、ガンガーン、ガンガーンと次第に調子をたかめて行って、はてしもなく高く騒々しくなって行く音は、家中のありとあらゆる戸――袋戸棚の戸でも、戸棚でも、ましては枕元の屏風からさえ響いて来る様に想えた。
 祖母の寝息さえ私の耳には届かない様になった。こんな事は勿論、私の妄想にすぎないと知りつつも、此上ない恐れに心を奪われて、いきなり枕へ頭を下《おろ》すやいなや、夜着を深くかぶって、世界中たった一人の身になりでもした様な、たよりない気持になって、静かな眠りに入ろうとした。東京に居たら、こんな時、私は母の床の中へかくまってもらう。どんなに恐ろしくても、安心な気持になって母の手だの袂だのを握って気のしずまるまで置かしてもらう。私は火を吹く時の様に、頬をかすかに、ふくらませたり、すぼませたりして寝入って居る祖母を起す気にもならなかった。
 安眠が出来ないまんま朝早く起きると変な工合に雪が積って居るのを見つけた。北からのひどい吹雪だったのですべて北に面した方ばかりに吹きよせられた雪が積って居る。前の庭の彼方《むこう》を区切って居る低い堤には外側の方がひどく白くなり立木の皆がそうである。雨戸はことにそれがはげしく北の雨戸は随分あつくかたまって、戸袋に入れるのに女中は雪を箒ではらい落したほどだけれ共、南側のはほんの少しほかついて居ない。
 長く此処に居る祖母は、「こんな事に驚いて居るなら三尺も雪が積る時はどうする」と笑った。実際私はまだ七寸より厚く積った雪を見た事はない。
 小学校の先生は、自分の家の縁側に出て、
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「ひどく吹きやしたなあどうも昨晩《ゆうべ》は妙に凍《しみ》ると思いやしたよ。
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とこっちの縁側へ朝のあいさつをした。女中は手がかじかんで、湯のみ茶碗を破って仕舞うほどだった。朝になってもまだ、少し許り吹雪めいたものがして居るので女中等は少し遠くにはなれてある納屋へ薪を取りに行くのさえ出来るだけのばして居た。
 台所の炉には枯木をうずたかくつんでボンボンもやして居る。もう少しして来て呉れる雪見舞の百姓共をすぐ暖めてやれる仕度である。あばれて気むらな、降り様をした雪なので四辺の様子に、美くしさなどと云うものは少しもない。或る処は、まっ白い海の様に見えるかと思えばそのわきには茶色の草や木や畑がむき出しになって悪く云えば「なまず」だらけの老婆の顔の様にみっともない。祖母と女中は物ずきだと云って随分止めたけれ共、私は、傘をさして足駄を履き、ブルブルしながら庭の一番深く積って居そうな処々を選んで歩き廻った。皮膚に粟が出来て、唇が紫になり、いつも私がいやがって居る通りに鼻が赤くなるのが自分にも感じられた。庭の堤《どて》の上に並んで居る小松に積った雪は何と云っても美くしい。裏の竹藪で雪を落してはね返る若い竹のザザザッと云う音が快く聞えて来る。車井戸をすっかり雪で包んでお菓子の様に甘そうに、あすこから水が出ようなどとは思われない形になって居る。
 一廻りして帰りかけた時、コールテンの足袋を履いて居る足の指の先が痛くなって来た。
 どうかするとつまずきそうになる。片手には大きな番傘を持ち、左の手は袖の口に入れて、袖口の処を一寸指先だけで内側にまげ肱を張って調子を取り、一足歩いては雪を下駄の歯から落し、又一足行っては置土産をし、来たあとを振りかえるとズーッと向うの曲り角から今自分の立って居る処まで、歯の幅に下の方に泥《どろ》が黒くついて居る雪のかたまりが二つずつ、木の根と云う根の処に必ず思い思いの方を向いてころがって居る。
 手や足がひどくつめたくなったので、私は家へ上ろうと思って堤にそうて入口の方へ行こうとした二三間の木も杭もない中央の処で歯の高さから二三寸も高くはさまった雪の始末に、あぐねて仕舞った。足を宙に振って見ても、只、下駄が飛んで行きそうになるだけで雪は一向に落ちない。雪を落す事は断念してその至極歩きにくいコロコロする下駄で、そのまま歩く事を工夫した。つまさきをすっかり雪の中へ落して、爪皮一枚を透して雪の骨にしみる様な冷たさを感じながら荷やっかいな下駄を引きずって歩き出した。
 ころぶまいとする努力のために私は一心に地上を見て体中の神経を足の先に集めて居るとフイに耳元で、
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「やや子(赤坊)の様な事してなさるて事よ。
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と云う声に驚いて見ると、甚五郎爺が大きな雪かきを肩にかついで、長靴を履いた上にわらぐつを履いて「もんぺ」をだぶだぶにつけて立って居る。見ると、家の持地の入口の道から門まで一直線の路をつけて、踏み先へ先へと、雪かきを押して来たものと見え、今自分が立って居る処までほか地面は現われて居ない。父がまだ若い時から居た爺なので、私の事をまるで、孫でも見る様な気で居る。顔中、「たて」の大波をよせて歯ぐきを出して、私の様子を見て居る。
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「東京さ、告げであげますだ。さ、来なされ、そらころぶころぶ。
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 爺は、その大きな、私の頭なんかは一つかみらしい変に太くて曲った指のある手で私の手をひっぱり、三つ子を歩かせる様に私を家へつれ込んだ。
 この様子を見ると先ず笑ったのは女中で、怒りもならない顔をして祖母は、
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「まあ何て事だえ、甚五郎が来なかったらどうする。
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と云いながら、私に奇麗な足袋を出して呉れた。祖母は、
 「鎌足らず公だから、三河屋の呉れた餅を三ケ一ほどお汁《つけ》の中へ入れておやり」と云う。甚五郎は炉で煙草を吸って居る。
 鯛の眼の通りな水色の眼玉は、たるんだ瞼をながれ出しそうになって居て、「たて」や「横」の「しわ」が深い谷間を作って走って居る。大抵は頽《は》げた頭の後の方に、黄茶色の細い毛が少しばかり並んで居る。
 歯のない口をしっかり結んで「へ」の字形にして居るので何だかべそを掻《かい》てる様に見える。耳のわれそうな声で話すが、自分は非常に耳が遠い。十近く年上の祖母から「耳が遠いよ」と云われるほどである。随分長い間、今小学校の校長の居る処に住んで居て、畑や米の世話をして居たが、気の勝った年寄の召使と主人とは、しばしば衝突が起って、しばらく東京の家の方へ来て居た事もあったけれ共、今は、隣村とこの村の境のどっちともつかない様な処へ息子からの「あてがいぶち」で暮して居る。少なからず抜けては居るが、この爺をこの上なく大切がって居る女房は、百姓共の小供の着物等を縫ってやって僅かの口銭を取って居る。
 長い事、煙草をふかして居た甚五郎は「やっこらさ」と立ちあがって、祖母の居る茶の間の入口に小山の様に大きく膝をついて拳固《げんこ》にした両手の間に頽げて寒そうな頭を落す。
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「とうとう降りやしたない。寒い事寒い事。
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と目を細くする。そして私の方を見て、笑いながら、さっきの私の様子を細々《こまごま》と祖母に説明してきかせるのである。お汁《つけ》の中の餅をありったけ食べつくしてから甚五郎は水口から井戸までの細道をつけ一通りぐるりを見廻ってから、手拭をもらって帰った。
 それから後、引きつづき引きつづき有象無象が「悪いお天気でやんすない、お見舞に上りやしただ。
と云って来た。その中の或る者は、水を
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