児だちゅうたら。
「かまいやしないよ、子供の事だもの。
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 女中もいつの間にか後に立って、
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「ほんに彼の児は気が強《つえ》え児だかんない。
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と云って居る。じきに女は帰って仕舞った。女中は湯を「金《かな》だらい」にあけながら、
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「頂戴物が減るのを気づかって来やしたのし。
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と笑って居た。
 女中は祖母にその事を見た様に話して居る。
 祖母に、たのまれた用事があるので、じき近処の牛乳屋へ行く。此村に只一軒の店で昔から住んで居るので実力のある家だ。
 四五年前に病気が流行《はや》った時に数多の牛を失ったので、今は元に戻すにせわしくして居る。兄弟で一家に居て同じ仕事を共同にして居る。兄はどっちかと云えば小柄な、四角張った顔の中に小さい眼と低い鼻と両端の下った様な口をして居る。髪を少し長目に刈ってクキンクキンとした眉の下からその小さい眼がすばしっこく働き、上眼で人を見る癖がある人だ。見かけは小細工の上手そうな男に見えるけれ共、内心はそうではないらしい。村会議員の選挙、その他重だった事にはなくてはならない人になって居る。
 召使より早く起き日の出ないうちに外囲りを掃いてから、乳搾りやその他のものを起すと云う事は知らぬ者がなく、働き手で通って居る。体も骨太に思い切って大きく眼の大きい眉の太い弟の方は兄より見かけが良い。兄よりは熱のある顔つきをして居るけれ共深い事は知らない。
 荷馬車の轍《わだち》の深い溝のついて居る田舎道を下り気味に真直に行って茨垣の中に小さく開いて居る裏門から入って行く。
 左側の小屋の乾草を小さい男の子が倍も体より大きい熊手で掻き出して居る。
 牛はまだ出て居ない。午前中は出さないものと見える。狭い土面をきちきちに建ててある牛舎には一杯牛が居る。私の幼《ちい》さい時から深い馴染のある、あの何だか暖ったかい刺激性の香りが外まであふれて居る。
 退屈な乳牛共が板敷をコトコト踏みならす音や、ブブブブと鼻を鳴らすの、乾草を刃物で切る様な響をたてて喰べて居るのなどが入りまじって、静かな様な、やかましい様な音をたてて居る。
 わきに少しはなれて子牛と母牛を入れてある処がある。乳臭い声で「ミミミミ」と甘える声や、可哀くてたまらない様にそれに答える母牛の声が私までが良い気持になる様にひびいて隙間から、草を口うつしに喰べさせて居るのが見える。
 牛舎の中へ入って行く、馴れない故《せい》で牛の鼻柱の前を通るのはあんまり良い気持はしないけれ共、静かに草をかんで居る様子は、どうしても馬よりはなつきやすい気持を起させる。ズーッと中に入ると消毒した後の道具を拭いたり、油をさしたりして居る男達が五六人居る。田舎の牛乳屋にしては道具でも設備でもがよく整って居ると思って見る。
 主屋に行くと誰も見えない。真黒いミノルカとレグホンが六七羽のんきにブラついて居る。中を一寸のぞいたけれ共人影が見えないので誰かにきいて見ようと思って又牛舎の方へ行きかけると、裏の方から、主婦が出て来た。
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「まあいらっしゃいまし。よっぽどお寒うございますねえ、お上りなさいまし。
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と気味よく云う。
 自分で結う丸髷をきれいに光らせて縞の筒袖の上から黒無地の「モンペ」をはいて居る。草鞋を履いてでも居そうなのに、白足袋に草履《ぞうり》があんまり上品すぎる。
 足の方を見ると、神社の月掛けを集めて廻る男の様な気がする。年の割にしては小綺麗に見える人だ。二夫婦一緒に居るのだから気がねが多いと云って居る。いそがしそうだから立ったまま用向を云って今留守な主人が帰ったら伝えて呉れと云って置く。
 お上んなさいお上んなさいと進められてもいそがしそうだからと云ってかえりかけてる処へ大きな包をしょってお繁婆が来た。買物をたのんだと見える。
 しゃぼんだの足袋だの砂糖だのをならべる。
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「こんなものまで町でなければありませんのですからねえ。
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と云って居る。
 足袋が目立って不恰好だ。
 砂糖が二銭上ったと云いながら黄色い大黒のついた財布を出して少し震える手で小銭をかぞえて縁側にならべる。しゃぼんを一銭まけさせたと手柄顔に話す。
 帰る時にミノルカが生んだのだと云う七面鳥の卵ほど大きい卵を二つくれた。東京ではとうてい見たくとも見られるものではない。大いそぎで勘定をすませたお繁婆は私のあとから追掛けて来て、
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「御邪魔になりやすっぺ。
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と云う。
 疲れた様な足つきの婆さんに中央《まんなか》を歩かせて私はわきの草中を行く。
 甚助の家へ今朝よったから昨日のことを話した。御詫びに行くと云って居たがほんとに行ったか、なんかと云う。
 子供のことを一々そんなにとがめだて仕ずとも良い。私は何とも思って居ないんだからと云うと、
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「何そんな事がありますぺ、人がねんごろに問うてやるに石投げるなんちゃ此上ねえ悪い事なんだっし。
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 腹を立てた様に太い声を出して云うのである。後生願いの良い婆さんだから私に、本願寺にお参りさせて呉れろと云う。案内して呉れと云うのか私の金で連れて行ってくれと云うのか分らない。
 一つ二つ短かい距離《みちのり》を行く間に「あみださま」に関した話をして聞かせた。
 あんまり御噺[#「噺」に「(ママ)」の注記]話めいて居るので笑いたい様な顔をすると、
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「学問の御ありなさるお前様方にゃあ可笑しかんべえけど私達《わしたち》は有難がって居りますのさ。
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といやな顔をする。見かけによらない話を沢山知って居る婆さんだ。
 祖母は年柄ではさぞ信心っぽい人の様だけれ共案外で別に之と云う宗教も持って居ないので、私達のところへ来ると熱心に「あみださま」の講釈をする。
 口振りでは、彼の世に、地獄と極楽の有る事を信じて居るらしい。一体、村の風で非常に信心深い村もあるが此村はさほどでもなく、他人《ひと》の家へ来て仏様の話をするのは此の婆さん位なものである。後生願いの故《せい》か行儀は良い。働き者でもあるから祖母は好いて居る。
 婆さんは家へ来ると井戸端ですっかり足を洗い、白髪を梳しつけてから敷居際にぴったりと座って、
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「ハイ、御隠居様、御寒うござりやす。御邪魔様でござりやす。
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と云う。
 歩いて居ると体はまっ直《すぐ》になって居るが、座るとお腹《なか》を引っこめて妙に膝が長い形恰になって仕舞う。
 婆さんはこの前の日まで中学の教師の家へ手伝に行って居たとか云って、
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「めんごい赤坊さまでござりますぞい。眼が大きゅうて、色が抜けるほど白くてない。先生様、そっくりでいなさりやす。奥様も順でいなさりやすから昨夜《よんべ》お暇いただいて来やしたのえ、父様《ととさま》も母様《かかさま》も、眼の中さあ入れたいほど様子で居なさる。赤坊《やや》のうちは乞食の子さえめんげえもんだっちゅが私《わし》でも赤坊《やや》の時があったと思やあ不思議な気になりやすない御隠居様。
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 他愛もない声を出して笑う。
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「そうそう、私《わし》がお暇いただく三日ほど前にお国の母様《かかさま》が、東京さあ嫁《かた》づいて居なさる上の娘さんげから送ってよこしたちゅうて紫蘇を細《こま》あく切って干《ほし》た様なのをよこしなすったんですがない、瓶の蓋が必[#「必」に「(ママ)」の注記]してあきませんでない又、東京さ、たよりして、どうして使うべえてきいてやりなすたのえ。御隠居様あ、御存じなんべえから、分ったらちょっくら教えてあげて参じ様と思いましてない。
「蓋に紙が張ってあったんだろう。
「ありやした、色取った紙が。
「その紙をあけると、蚤取り粉の曲物《まげもの》の様に穴の明いた蓋になって居るからそこから御飯にかける様になって居るんだよ。しめりがこない様にそうするんだろう。
「そうでやすか、そんで始めて合点が行った。田舎者はこれですかんない。
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 一寸背をちぢめる様にして愛素笑いの様な事をする。祖母は婆さんに与《やろ》うと思ってカステラを丁寧に切って居る。何にも慰みのない祖母は東京から送ってよこすお菓子を来る者毎に少しずつ分けてやって珍らしい御菓子だと云って喜ぶのを見るのを楽しみにして居る。田舎は時間と云う考が少ないのでいつと云う限りなしに来ても来ないでも同じ様な者が沢山来るのでその度毎に出すとかなり沢山あったものでもじきになくなって仕舞う。カステラがあと一切分ほか残りがなくなったりすると急に減り目を目立って心に感じて、
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「もうこれっぽっちになったのかねえ。
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なんかと云う。
 祖母の口へ入るより来る者の喰べる方がどれだけ多いか分らない。
 東京の習慣だと客に行って出された菓子をあるだけ喰べる事はしないので、始めのうち炉端へ座り込んで自分で茶をつぎ、よっぽど沢山ででもなければ残さず出したものを喰べる無邪気っぽいお客連を見ると変な気持がした。
 お繁婆さんは木皿へ盛って出されたカステラをしげしげと見ていろいろの讚辞を呈してから大切そうに端《はじ》から崩して行く。実際この村や町では藤村のカステラの様な味のものはさかさに立っても喰べられないのである。
 お繁婆さんが永い事かかってカステラを喰べ幾重にも礼をのべて帰った後から、元、小学校の教師か何かして居た人の後家が前掛をかけて前の方に半身を折りかぶせた様にして来た。何でもない、只町に新らしい芝居のかかった事とこの暮に除隊になる、自分の家の前の息子の噂をしに来たのである。
 祖母はこの婆さんを好いては居ない。げびた話ばかりして何かもらうか食べるかしなければ帰る事のない人だからである。
 貧しいと云っても比較的東京の貧乏人よりは何かが大まかで、来た者に何かは身になるもの、例《たと》えば薯の煮たの、豆のゆでたの、餅等と云うものを茶菓子に出すので、家から家へと泳いで廻って居るこの人等は三度に二度は他人の家で足して居られるので、孤独の貧しい頼りない生計も持って居る事が出来るのである。田舎の純百姓で針の運べる女は上等で大方は少しまとまったものは縫えず、手は持って居ても畑に出て時がないので、そこに気の附いた町の呉服屋では襦袢から帯から胴着まで仕立てあげたのを吊して売って居る。この婆さんは呉服屋の仕立物をうけおい、その呉服屋が此村に持って居る貸家に、長い事、不精に貧しく暮して居るのである。
 不幸な人と云わるべき老婆である。全くの孤独である。子も同胞《きょうだい》も身寄《みより》もないので家も近し、似よった年頃だと云うのでよく祖母の家へ話しに来るのである。
 年を取った象と同じ様に体中に茶色の厚いたるんだ皮がはびこって居て、眼も亦それの様に細く気がよさそうにだれて居るのである。大抵は白い様な髪を切りさげて体からいつも酸《す》っぱい様な臭いを出して居るが、それは必[#「必」に「(ママ)」の注記]して胸を悪くさせるものではなく、そのお婆さん特有の臭いとして小さい子供達や、飼いものがなつかしがるものである。笑う時にはいつもいつも頭を左の肩の上にのせて、手の甲で口を押える様にして、ハッハッハッと絶《き》れぎれに息を引き込む様に笑った。その様子が体につり合わないので、笑う様子を見て居る者がつい笑わされるのである。
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「まあ、貴方、郡山《こおりやま》(町の名)さ芝居が掛りましたぞえ、東京の名優、尾上菊五郎ちゅうふれ込みでない。外題は、塩原多助、尾上岩藤に、小栗判官、照手の姫、どんなによかろう。見たいない。
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 祖母の顔を見るやいなや、婆さんは、飛び立っ
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