重くおいかぶさって、晴れ渡る時は極く少ないうちに夜になって仕舞う。人の声も犬の声もしない。狐の提灯が田の中を通ると云うのも此頃である。雪でも降れば、雪見舞の人々が通りも仕様けれ共、雪降り前の、何となくじめじめした、雨勝ちの今頃は皆が皆こもって居るので、人通りと云うものはまるでないのである。
町からの魚屋も大方は来ない。辛い鮭と干物とが有る時は良い方である。私共は毎日野菜で暮して居る。牛乳の有るのを幸、それで煮たりして少しは味の変ったものもたべて居るものの、魚のなまか、牛の焼いたのがたまらなく欲しい事がある。そう云う時に折よく東京から送って呉れる、魚の味噌づけ、「一《ひと》しお」の嬉しさは一月に一度か二度ほか魚のたべられない処へ行ったものでなければ分らない事であろう。外へ出てする事はなし、農民は、冬が一年中の食時《くいどき》である。正月にならないでも餅をつく。東京の様に四角い薄平《うすべ》ったいものにするのではなく、臼から出したまんま蒸《ふか》すのでまとまりのつかないデロッとした形恰になって居る。それを手で千切《ちぎ》って、餡の中や汁の中へ入れる。あまりは鍋などの中へ千切って入れて置くのである。見た所は、出来上りでも東京のよりは倍も倍も不味《まず》まずしい形をして居るけれ共味は却って良い位である。
こうして餅をつき一日がわりに家々をたべて歩いてなど居るのである。こんなに寒くて居ながら食物は非常に粗末で餅等は上等の食料である。この村で一番食物に困るのは云わずと知れた冬である。私は、寒さよりも、食物よりも、その淋しさに堪えられない程である。このまんまズーッと地の中に沈んで行って仕舞いそうな気持のする地面の様子や枯坊主になってヒーヒー云って居る木々の様子は、こんな処になれない私をよほどつよく刺激する。私は毎日こもって火のそばをはなれず着ぶくれて身動きもならない様にして居るのである。
この寒さの最中、満期になって帰って来た高橋の家の息子は帰るとすぐ家へ来た。面長の、眼の大きい、すんなりした顔立の男だけれ共、少し気の遠い処が有りそうな口元をして居る。色なんかちっとも白い事はない。額の生際の方が少し顔の下の方よりは白っぽい。まだいかにも兵隊帰りの様子をして居て歩くのでも、口の利きかたでも「…………終り」と云いたげな風である。
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「そうであります。
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と云うのがいやに耳ざわりに聞えた。辛かった事、面白かった事を細々かぞえたてて話したのが祖母には耳珍らしくてよかったらしい。
冬の最中に、銃の手入をするのが一番つらかったと云った、赤切《あかぎ》れから血がながれて一生懸命に掃除をする銃身を片はじから汚して行く時の哀《なさけ》なさと云うものはない。銃を持って居る手がしびれ、靴の中の足がこごえて、地面のでこぼこにぶつかってころんだり銃を落したりする。
祖母は涙ぐんできいて居た。来る人も少ないので祖母は長い事引きとめ、いろいろ食べさせたり、飲ませたりして、反物をお祝だと云ってやった。涙を襦袢の袖で拭きながら、
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「お前もまあこれで一人前の男になったと云うものだ。これからは嫁さんさがしにせわしい事だねえ。
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と云うと男は、
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「何そんな…………
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と云って座りなおした。祖母は自分の身内のものの様な、頼《たのも》しい様な気がして居るのだろうなどと思って私は見て居る。学校仲間、在郷軍人、親類などから祝によばれたり呼んだりするので母親はせわしがってるとうれしそうに云って行った。
高橋の息子が帰った頃から又寒さがました様で、段々空気は荒く、風の吹き様もなみではなくなって来た。祖母は、吹雪の時の用心に屋根瓦を見させたり、そこいらの納屋の壁や、野菜を入れて置く穴倉に手を入れさせた。毎朝来るトタン屋は、風呂場の樋《とよ》だの屋根だのの手入をして居る。いかにも手が鈍い。東京の職人も煙草を吸う時間の永いには驚く様だけれ共、まして此処いらのはひどい。弁当は持って来ない。縁側に腰をかけて出して呉れる膳に向って暖ったかい飯を食べる。何故職人に平常《ふだん》の時膳を出してやるのだと聞くと此処らでは少しゆとりのある家では、皆昼を出すのだと云う事だ。あんまり職人につくして居る様な気がする。
トタン屋も来ない様になり、家の中は一層ひっそり閑《かん》として、私が大股に縁側を歩く音が、気の引ける様に、お寺の様に高い天井に響く。持って来た本もよみつくした私は、一日の中、半分私が顔を知らないうちに没した先代が、細筆でこまごまと書き写した、戦記、旅行記、物語りの本に読みふけって居る。若しそうでない時は、炬燵で祖母ととりとめもない世間話しや、祖母の若
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