た様にその小さい眼をかがやかしながら云う。
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「行ってお見ねえか?
「私は、あすこまで歩くのが事でなし、郵便局のお政さんとでも行けばいいに。
「お政さんとかい?
「ほんとに菊五郎が来るんでしょうか。
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 私がきく。
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「去年も来ましたが、から下手の下手でなし、この間、初日に、お徳さんが行ったちゅが去年のと顔が違う様だって云ってましたぞえ。
「まあまあ、菊五郎の名だけ来るんですねえ。
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 婆さんは懸命に去年見た、お染久松の芝居を思い出して話してきかせた。お染の「かつら」が合わないで地頭が見えて居たとか、メリンスの着物を着ていたとか、脚絆をはかないので見っともなかったとか云って居る。祖母も私も笑ってきいて居る。こんな時には大抵祖母の歌舞伎座だの、帝劇だのの話が出る。
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「小屋だけ見ても結構なもので。
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と天井に絵の張ってある事、電気がまぼしくついて居る事、ほんとうに、縮緬や緞子《どんす》の衣裳をつけて居る事などを、単純な言葉で話すのだけれ共、しまいには行かれも仕ないのに、只行きたがらせばかりするのはつみだと思っていい加減にお茶をにごして仕舞う。町へ芝居を見に行く前に、村の者はこの婆さんのところへ行って概説《あらすじ》だけをきいて来るのであるけれ共、時には伽羅千代萩と尾上岩藤がいっしょになり、お岩様とお柳とが混線したりする。けれ共この村でのまあ芝居通である。
 婆さんはいろいろ祖母と話をした末とうとう行くときめたらしく五十銭|気張《きばる》のだと云って居た。
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「そいから御隠居さん、私の家の前の高橋の息子を知って居なするべ。あれが暮に除隊になって来るってなし、母《かかあ》どんは今から騒ぎ廻って居るのえ。花嫁様、さがすべえし、もうけ口さがすべえしない。百姓には、したくないちゅうてなし。中学出したからですぺ。
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 婆さんは思い出し笑いをして肩をすぼめる。其の息子がまだ中学に居た頃、この婆さんの家に居て通って居たが、お針に来る娘が夢中になって可笑しいほどだったが、いつの間にか噂が立って娘はお針に来なくなった事を「さもさも若い者が」と云った口調で変に笑いながら話す。
 村の子がその息子に娘からの手紙を持って来たが留守だったので、婆さんが受け取って帰って来た時渡したら、火の出る様な顔をしてすぐ外に出て行ったなどとも云った。
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「十七か八で色は白し、眼は大きし、ほんに小栗判官の様でなし。あの娘も、ここらの娘にしては、小綺麗な娘でしたぞえ、私の家へ来ん様になってから判官様は夜おそくまで帰らん事がよくありましたっけし。逢うて来るのだっぺ。まだ嫁《む》かさらんちゅうことだてば、判官様に、嫁様が来ただら、化けて来べえて、ハッハッハッ。
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 お婆さんは、いつもの通り顔をまげて笑う。
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「三年、日に照らされづめで来たのだでは、あの白いのも狐色位になったろう。
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 村の聞新しい事柄がいつもこの婆さんの耳へどうしたものか先ず第一に入るものと見える。
 身寄りない割りに我儘で、すき勝手に彼の人はきらいだとか、彼の女は、変だのと云う。そうしてそう云う人の噂はきっと悪くつたわるのである。
 その噂の元はと云えば、誰も知る者はなく、婆さんの耳元だけ、聞えたと感じた事もなかなか少なくないのである。中傷するほどの腕はないけれ共、自分の交際《つきあい》ばかりを次第次第にせばめて居るのである。
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「先生とこの奥様もこの上なしのぐうたらですぺ。朝から晩まで流しの上には、よごれものがたまって新らしい茶碗の縁が三日と無疵《むきず》で居たためしがないとなあ、三十九にもなって何てこったし、あまり昼、夫婦づれで、仮寝《うたたね》ばかりしているからだなっし、貴方。
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 それが、裏庭にある小学校長の家で妻君が庭を掃いて居る時にきこえてからと云うもの、もらいものが腐りそうになっても、食べきれないほど野菜があってもやる事はぴったりやめ用事があってもこの婆さんの居る時は必[#「必」に「(ママ)」の注記]して声さえかけないほどになった。
 実際この細君は、田舎の小学の先生の細君の一番好い典型である。その、のろい事、わかりの悪い事、眠りたがる事は私でも始めて位である。台所でごとごとしてでも居なければ午後からほんとうに夫婦づれで明けっぱなした座敷の中央にころがって居る。絶えず、人の好い微笑を口にうかべて、何と云っても必ず、
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「そうだけんども。
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