町の三つに分れる処にある床屋には、沢山若い百姓が集って居る。
極く極く質朴な処が若い百姓には少なくて、金のある時に町へ行って買いためたハンケチだの、帯だの、ニッケルの時計だの、指環だのをあらいざらい身につけて、新銘仙の着物等を着て居るのが多い。節くれだった小指に、鍍金《めっき》の物々しい金指環をはめて居たり、河《かっ》ぱの様にした頭に油を一杯つけて、紫の絹のハンカチでいやらしく喉を巻いたりして居る様子は、ついしかめっ面をするほどいやだ。何故こんな様子がしたいんだろう。純粋の百姓の様子で何故いられないのだろう。都会の、借金して縮緬の紋附を着る浅ましい気風がこんな山中にまで流れて来て居るのだろう。
教育家でなく、宗教家でないでも、いやな事だと思うよりほか仕方がない。斯うやって、鍍金の指環をはめたい男達は、自分の能力を考えもしずに都会の派手な生活にあこがれて、上野の停車場へ降《お》りさえすれば、目の前に金のもうかる仕事が御意のままにころがって居ると思って居る。それほどに思って居ないにしても、とにかく、非常に易々と成功を遂げられるものだと思っては居るに違いないのである。
娘でも、東京へ出て一二年奉公でもすれば、立派な奥様になりあがって、明日はどこの芝居、その次の日は何の会と歩き廻れるものの様に思って居る。都会の奥様は、日髪、日化粧で、長火鉢の前で鉄瓶の湯気の番人をして居ればすむ様に思って居る。
東京――都会の生活を非常に理想的に考えて居る事、都会に出れば、道傍の石をつかむ様に成功の出来るもの、世話の仕手が四方八方にある様に思う事、食うに困る事等はない様に思う事等は、東京の生活をしたものがあんまり馬鹿馬鹿しいと思う位いに善い事ずくめに想《おも》って居るのである。東京を見た事もないで、どうしてそんなに善いとばかり想って居るかと云えば、東京見物に行ったものの土産話しと、雑誌の記事写真によるのである。
農業休みに十日か二十日の東京見物に出かけたものは、只にぎやかな町の様子、はやしたてて居る見世物、目のさめる様な店飾りにイルミネーション、立派な装で自動車を飛ばせて行く人、ぴかぴかに光った頭の婦人、その他あれやこれや、只もうにぎやかなパッとしたむく鳥おどしに仕掛けてある事にまんまとおどされて、刺激の少ない処に居て急にさわがしい処に出たので、いいかげん頭が熱くなって、自動車
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