ヵ月ほど実行している中に、微熱は出なくなった。十二月に盲腸炎を起し、慶大病院で手術した。
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一九三九年(昭和十四年)
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三月。〔一〕昨年末の作品発表禁止がとけそうな気配があるといって文芸春秋が小説を依頼した。丁度宮本の弟が中国に出征させられたときであった。私は「その年」という小説を書いた。文芸春秋社で内閲に出した。そしたら各行毎に赤線が引かれて戻ってきた。線のひかれないところは「である筈だのに」とか「そうしている中に」とかいう文章でこれは纏まった言葉とも云えない。編輯者も私も苦笑してその原稿を保留した。六月頃、文芸春秋に「からたち」随筆四、五枚を書いた。これは発表された。七月中央公論に、三宅花圃と一葉とのことを書いた随筆を書いた。それも発表された。こうして理由なしに禁止された作品発表は、まだはっきりしたわけが分らぬ中にそろそろ印刷されはじめた。私は書ける間に出来るだけ書くという心持をもった。小説「杉垣」(中央公論)、「藪の鶯」、「清風徐ろに吹来つて」、「短い翼」等明治から現代までの日本文学の動きと婦人作家の生きてきた道を追求する仕事を文芸に連載しはじめた。この年は戦争の進行につれて軍需生産を中心とする日本経済の「軍需インフレ」の無責任な活況が起った。インフレ出版、インフレ作家というよび名さえ起った。しかし文学の実質は低下の一線をたどった。戦争遂行目的のために作家と文学の動員されることはますますはげしくなって「文芸家協会」は「文学報国会」となり、作家のある人々は、積極的に報道員となって中国に行った。日本の戦争の侵略的な帝国主義の本質とその戦争遂行のために治安維持法によって全人民に理性的な考え方と発言とを禁じている日本の現実に目をつぶって軍隊とともに中国を歩き廻ったとしてもそこにどんな人間らしい文学も生れないのは当然であった。文学の文学らしさをもとめる心持が同時にはげしく感じられてきた。この年は婦人作家の活躍した年といわれ、その理由は婦人作家の社会性が狭くて、自分の小さい生活と芸術境地を守りつづけてきているために、男の作家が軍事的社会風潮におしながされ、真実性のない長篇小説などを流行させているのに対して、一縷の芸術性を発揮したものと評された。「綴方教室」や「小島の春」のような素人の文学「女子供の文章」の真実性が云われた。し
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