猫車
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)炬燵《こたつ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大分|臥《ね》てじゃけ、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ちさ[#「ちさ」に傍点]の籠をお縫にわたした。
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 紺唐草の木綿布団をかけた炬燵《こたつ》のなかへ、裾の方三分の一ばかりをさし入れて敷いた床の上に中気の庄平が眠っていた。店の方からその中の間へあがった坂口の爺さんは、別に誰へ声をかけるでもなく、ずっと炬燵のうしろをまわって、病人の枕元へ行った。枕元は二枚の障子で、隅に昔風な塗り箪笥がある。下の方の引出しはおさやの襦袢や小ものなどが入っているが、上の方の引出しには病人の見舞にと町の親戚からくれた森永ビスケットの罐などもしまわれているのである。坂口の爺さんは、自分の目的にばかり気をとられている人間のはたに無頓着な表情を血色の冴えない顔いっぱいにしながら、箪笥へ手をのばして、その上のラジオをねじった。
 病人の頭の真上で、ラジオは大きな音で唸り出した。その音でぼんやり薄目をあけて彼を見上げた庄平にかまわず、坂口の爺さんは次の間へ来て、坐蒲団をさがしもせず縁のない畳の上へじかに坐った。そして、懐から畳んだ手拭を出し、その手拭の間から一枚の印刷したケイ紙をとり出して畳の上にひろげた。その紙の上に、つくばうような恰好で坂口の爺さんはかがみかかった。永年の農家仕事で、指の先の平たく大きくなっている右手には短い一本の鉛筆がある。
 ラジオはすぐ「経済市況を申しあげます」と、歯切れのいいような、追い立てられるような口調で云い出した。
「新東百五十三円丁度、ふた十銭やす。親鐘ふた百八十五円丁度。高値五円とお銭。新鐘ふた百七十円八十銭、ふた十銭やす」
 坂口の爺さんのめくら縞木綿の羽織の背中はそのうち出すような早口と一緒に畳の上へかがみかかった。我知らず鉛筆を口の隅へあてがってそれを舐め舐め待ちかまえていて「親船八十八円ふた十銭」という声がかかるや否や、紙に細かく印刷されているその呼名の下にローマ数字を書き込むのである。先の太い、唾でふやけた鉛筆で小さい罫《けい》の間に書き馴れない西洋式の数字をはめて行くのであるから、絶間なく、弾むような調子で次から次へ流れる株の高低を、坂口の爺さんのスピードでついて行くことは至極むずかしい。おそろしい注意と緊張ぶりで、頸根っこに力を入れているのではあるが、やっと日本鉱業百二十七と書いて、まだ円二十銭迄とは書き込まないうち、ラジオはもう次へ進んで日石《にっせき》、百〇三円四十銭、三十銭やすと叫んでいる。
 一度二度とそういうことがだんだんとたまると、もう坂口の爺さんは一層ぺったり紙の上へつくばって、鉛筆をもっている肱を畳につけたまま身動きしなかった。その姿は、そうやって平たくなっている自分の上を、今、金が急流をなして走って行く、だがその奔流の勢は余り激しくって手が出せないし、そんな下の方まではこぼれて来るものでもないことを観念しているのだと、語っているようなふうに見える。何となし猛烈な感じを与えるそのひとしきりが過ぎると、坂口の爺さんの手は再びたどたどと動き出して、三つ四つの書きこみを加えるのであるが、その書きこみは、違った呼名の下に違った数字で書かれてゆくことも珍しくはないのである。
 この地方の家々は、村の狭い往来に向って店の土間から裏口までをぶっこ抜いて、細長い土間に貫かれていた。庄平の店の右手の低い板敷には、肥料・米俵・糠俵・煙突・セメント・左官材料等と、それを商うときにつかう大きいカンカン秤が置かれており、人気ない真昼間などには折々鼠の尻尾が俵の間に見えがくれした。春のこの頃は毎年肥料の渋いような脂のこげたような匂いが藁の匂いと交りあって濃く家じゅうに漂っている。土間の奥が広くなって、そこが台所であった。幅は三尺もない縁側めいたものが土間に向って六畳から張り出されていて、粗末な木の細長いテーブルがその縁側においてあった。朝と昼とは家内じゅうがそこで遽しく食事をした。
 お縫は、その張り出しと六畳との境の障子際に坐って、伯母のおさやの古浴衣をほぐしていた。庄平の骨ぐみの堂々と重く、しかし不随の腰の下に敷く小布団を縫わなければならないのである。
 坂口の爺さんは、お縫のところから斜向いの畳の上につくばっているのであった。鉛筆を我にもあらず舐めくる程気を立てている爺さん、しかも数字さえしゃんしゃんとは書き込めない爺さんのあせった姿は、お縫にいつも気の毒さと同時に若い娘らしい軽い皮肉を感じさせた。お縫の目に、この奥の村の小地主の爺さんがみじめたらしく見えるには、理由もなくはなかった。お縫の父親、庄平の弟は、この数年来兄貴に野暮な商売をゆずって、小一里はなれた村の家で繻子足袋を穿き、頸に薄い茶色の絹襟巻をまきつけて、政治や経済の話を声高にして暮していた。順平の家庭は、話の間に大きい金高がしきりに交るような生活の調子であった。どんなに大きい金高でも、それはほとんど例外なしに語られているというだけで、順平一家の実際の生活は、土地の人々の間に祖先の代からしみこんでいる信用ののこりと負債との上に営まれていた。お縫が伯母の手伝いに来ていて貰う月いくらかの手当てが、一家の事情ではまんざらどうでもいいものでないのだけれど、順平の気風は、お縫に向っても、あア場所へ出て見い、女子《おなご》だかてきょう日二十や三十の金はポンポンとっちょる! と云わせた。その話しぶりは闊達で生気があったから、その雰囲気に馴れているお縫には、坂口の爺さんのとりなし万端がいかにも山の中の小百姓らしいしみったれ工合に映るのであった。
 お縫は、褪《さ》めた潮染の身ごろをひろげながら、眼頭にあるちょっとした黒子のために却って大変表情的な顔を動かして、坂口の爺さんの方を折々見た。
 爺さんは、お縫など眼中にないふうで、市況放送がすむと、むっつりした面持のまま罫紙を畳の上からとりあげ、自分も体を起し、それを懐にしまって、隣りの部屋へいって、ラジオを消した。庄平が、また枕の上から白眼の目立つ上目で見上げたが、坂口の爺は二十年来のその組合仲間に声もかけず、それなり店の方へ出て行った。小柄な爺の体が運ばれるだけでも庄平の寝ている畳は一足ごとにひどく軋んだ。そこら一帯は田圃の埋立て地でたださえ地盤がゆるい上、線路が近くて、汽車の通るたんびに土台からゆすられる。この家も、つい先頃まではいつ競売になるかもしれない状態で十五年間住み荒されて来ているのであった。
 坂口の爺さんは店へ出たが、すぐ帰るのでもない。煉炭火鉢へあっち向きに蹲んで、うまくもなさそうに煙草をふかしている。
 けたたましく警笛をならしながら、乗合自動車が白い埃を巻きあげて通りすぎた。濛々《もうもう》とした埃はだんだんしずまって行きながら店のガラス戸にぶつかり、明るい昼過ぎの日光に舞いつつ土間へも入って来る。この往還は国道だが、幅は四五間しかない。定期がとおるようになってこのかた、塵埃と泥濘のしぶきとは容赦なくどこの家のガラス戸にもこびりついた。家々はそれを拭くことなどを別に考えず暮しているのであった。
 うしろから陽をうけて、紺セルの上被《うわっぱ》りの肩や後毛のさきについたこまかいごみを目立たせながら、おさやが店の土間へ入って来た。店の畳の上にいる坂口の爺さんには別に挨拶もせず、活動的な調子を張って、
「お縫さ、お縫さ」
と奥へ向って呼んだ。
「これ、晩に和えようじゃあるまいか、懸けといてつかあせ」
 持って来たちさ[#「ちさ」に傍点]の籠をお縫にわたした。そして、
「どうでござんす。いいところ儲かっちょりますか」
と、坂口の爺さんの蹲っている横に来て腰をおろした。声のなかには、儲かっちゃいますまいが、と真摯な警告の調子もこもっているのであった。永年女手一つで店をまかない、生活の苦労とたたかって来ている悧発な鋭い眼ざしでおさやは坂口の爺さんを見た。
 坂口は、乾いた掌で胡麻塩髯の生えた顔を一撫でした。そしておもむろに、
「――こんどは、醤油屋がしっかり儲けよった」
と云った。
「よっぽどつかみよったに違いない」
 おさやの、抜目ないあから顔に覚えず誘い出された好奇心が動いた。
「醤油屋た、どの?」
「そこの――醤油屋じゃが……」
 どういうわけだか坂口の爺が声をおとしてそう云ったのにつりこまれて、おさやも低い声になって訊きかえした。
「飯田どすか?」
 合点をして、
「今度で小一万はたしかに儲けちょる」
 おさやは、上被の合わせ目に片手をさし入れてちょっと沈思する顔つきであった。が、それ以上何も云わず、やっとせ、と声に出して店の畳へ上り、襖際によせて置いてある荒れた事務机の前へ座った。その様子を今度は下目で床の中から眺めていた庄平が、
「ヤイ」
 喉からの力の失われている声で呼んだ。
「ヤイ……来て」
「何どす? しいどすか?」
「ここがいけん」
「どこがいけません?」
「ここ、ここ」
「あんたもう大分|臥《ね》てじゃけ、ちいと起しましょう、な? 臥てばかりおってもなかなか御苦労なこっちゃけ、のうお父はん」
 立って来たお縫も、力をあわせ、女二人がかりで大きな庄平の上体を抱え起して背中に坐椅子をあてがった。
「この布団入れときますか」
「やっぱりその方が楽にあろ」
 油単をなおした大紋付の掛布団を丸めて、坐椅子と庄平の背中との間に挾んだ。そうして置いて立とうとするおさやを、庄平は自分の膝を叩くようにしてとめた。
「ここにいて――」
「ちょっと帳簿つけてしまわにゃならんから、待ッつかわせ」
 店では、さっきの処に坂口の爺さんが、火をつけない煙管を指の間にもったままかがまって、一枚の刷物を読んでいた。この春、西本願寺の若い法主が徳大寺公の姫と結婚する。費用は七十万円であった。西本願寺はそれについて、こういう地方の末寺の檀家にまで一口七十銭ずつの割当をきめて寄附を求め、その代りとして、裏方になる若い姫の和歌と法主の書いた字を赤と緑との色紙重ねの模様のうちに刷った扇子を配った。
「――やすうないな、実費はなんぼほどのもんじゃあろ」
 仔細に眺めていた坂口が、その扇をしめて刷物の上に置いたとき、
「はや、ここもまわりよったんか」
 勢のいい幅のある声とともに土間へ入って来たのは、相変らず年代も分らぬ古|天鵞絨《ビロード》の丸帽子をかぶった重蔵であった。
 おさやは、この店の帳場と云うべき机の前から頭をうごかして挨拶をした。重蔵は、背の高い頑丈な腰を軽くかがめると一緒に頭から丸帽子をぬぐ、丁寧なようなそうでないような独特の辞儀をしながら、
「大将の工合はどうで」
 庄平の起きかえっている中の間の方を覗けた。声を大きくして、
「どうで――ぬくうなったで安気なやろ」
 庄平は、猫背になって首を前へつき出し、造作の大きな顔の中で眼玉を気むずかしげに左右に動かしている。重蔵の挨拶には何とも答えない。
 重蔵は一服吸いつけてから、坂口に向って云った。
「この頃はじょうし茂一の店へおいでるそうじぁないけ」
「……そうもいかん」
「どうで――大分儲かりよったか?」
 薄|痘痕《あばた》をその間にかくしているような皺の多い面長な重蔵の顔には笑いが浮んでいる。七十を越えても全身の構えに油断なさが漲りわたっているこの重蔵に比べると、十も年下の坂口の近頃の肩の落ち工合がまざまざとわかる。坂口は重蔵の笑い顔に溢れている嘲弄を感じる余裕もない様子で、声を低め、
「――こんどは、醤油屋が儲けよった」
とまた真面目に繰返した。
「醤油屋?――どこの……」
 するとおさやが、どういうわけだかこのとき、少し怒ったような声を出して、
「飯田どすがな!」
と説明した。
「ふーん。あすこ、そんなに持っちょるか?」
「持っちょる!」
 しばらくそれなり皆が黙っていた。やがて重蔵が煙草の吸い殼をおとしながら、
「坂口はん、あんた、ひとの儲けた話ば
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