かり数えておいでるが、自分が儲けなんじゃ仕様がないやないか」
 瀬戸ものの総入歯の不自然な歯並びを見せて、おさやに目配せするように笑った。自分の富に対する揺がぬ自信と、世の中のけわしい貧富の流れの間から何を掴んで来るかを心得た地主の笑いかたである。大正七八年の恐慌で庄平の一家が初めて倒産に瀕したとき、ともかく店を続けさせたのは坂口であった。その金にはもとより利がついた。それから二十年近い歳月は、その頃どこか北海道の方にいた重蔵を世間の表に浮き上らせ、坂口を次第に寒げなこの世の横丁の方へと追いはじめている。
 これから失うものはもう手足の働きで決してとり戻せない年になって俄に株にこり出した坂口の姿は、みるたびおさやの心に恐怖に似た感情をかき立てるのであったが、その一方に、怖いもの見たさのような気持もある。唖の息子一人を持っていて、三十越して嫁もないその唖息子が金銭出納の帳簿をふりまわし、やがては鍬をふりあげて、株ですりつづける親父を追っかけまわすという有様を想ってぞっとしながら、不思議な力にひきつけられて、その悲惨な過程を一つあまさず目に入れたいような気も心のどこかに働くのである。
 この二人の組合仲間が、村にも響いて来る時代のうつり代りで一方は上り、一方は下る、その不安定な推移の間で自分たち一家が汗水をたらし、じりりじりりと競売から家をも救いはじめていることを思い、おさやは思わず坐り直して皸《あかぎれ》のある手を深く襟元にさし入れた。
 煉炭火鉢をさし挾んで、重蔵に気押されるなりに坂口は抵抗している。
「あんたが、あのとき千円出さなんだからあかんのや。わしが五百円、あんたが千円出したら、利だけはちゃんとまわすと云うのに、きかなんだからさっぱりあかん」
「わしは、株という名のつくもんは大根の株でも気にいらん。株にすてる金があったら、女子にすてる方がなんぼかええ。おなごならすてる金だけの愛想はまきよる」
「株ちゅうものは、儲かるように出来《でけ》ちょる。そんでなくて政府が許しとくものかな」
「そんならなんで坂口はんは損ばかりしといでるんじゃ。若い頃、横浜でチーハーにかかりよって、わしは懲りちょる。飯も食えんようになりよった。株はいかん! こっちに二百円儲けた者があれば、きッとどっかにそれだけ損しちょる者がある。畑なら何がないようになっても、食うてだけはゆける」
 体のがっちりとした気もがっちりとした地主の爺さんと、肩のすぼけた、気もすぼけた地主の爺さんとは、両方とも譲らず、その執拗さで却って二人ながらに迫っている老耄《ろうもう》を思わせるばかりに株がいい、土地がいいと諍っている。きいているおさやの家には土地もなければ、株もない。
 三時の市況をラジオできいてから、やっと坂口は店先から出て行った。
 おさやが、
「――どうどす、この頃は――嫁はんやっぱり卵もって来はりますか?」
と、笑いながら訊いた。
「来よります」
 白い瀬戸ものの歯の上で唇をすぼめるような恰好にして重蔵が答えた。
「せんぐり持って来よる。それにおとといから待遇がぐんと違って来た。風呂がわくと、先ず、お父はん、お入りませと云うて来るようになりよった、ハハハハハハ」
 その笑いかたには、隣りの座敷にいるお縫が思わず注意をひかれたほど棘々《とげとげ》しさがあった。
 重蔵には実の子がなくて、夫婦養子をしてある。年より夫婦は経済をきちんと分けて暮しているのであったが、或る日嫁がうちの鶏の生んだ卵を重蔵のところへもって来た。うちで生んだ卵でも、いくつと数えたうえ金を出して買うことにしてある。重蔵は、これまでどおり一箇二銭五厘あての勘定で銭を嫁に渡した。笊《ざる》をもって縁先に立っていた嫁は、その銭をうけとりながら、よそではこの頃卵一つが二銭八厘する、と云った。その言葉が重蔵の疳にさわった。もういらん、ということになった。嫁が途方にくれて泣き出し、養子が間に入ってあやまって、一つ二銭五厘で又元どおり卵をとるというところに落着したのであった。
「旗を出す竿が、これまでのは短うてせむなというて、竹林に兼吉が近所のもんと連《つろ》うて行きよった。そしたら、その人がびっくりして、これははや初めて来て見たが愈々《いよいよ》見事なものじゃ、一の森じゅうにこれ程のものはない、これだけのこして貰うただけでも大した金目や、と云うたげな。それで、少々考えが違うてきよったふうじゃ」
 ハハハハと重蔵は再びお縫の耳をひく笑いかたで高く笑った。おさやは、落付いた慰さめをこめた口調で何か云っている。けれども、十八のお縫は、重蔵の心に鬼が住んでいると思った。養子夫婦と自分たち年寄との毎日毎晩の些細なことを、一つ一つ金に換算して、あの親切はなんぼ分、この丁寧もあすこからと、銭に引きあてて見せる鬼が重蔵の心に巣をくっている。その鬼は重蔵を決して安心させないだろう。幸福にもさせないだろう。何万あるのか知らないが、そのためばかりに、重蔵は自分の一番近い筈のものへ自分の心の一番冷たい憎悪と打算とを向けているのである。そう思って、負けずぎらいな重蔵が瀬戸ものの歯の間から響かせる高笑いを聞いているだけでもお縫は胸苦しいような気がした。年頃のお縫には、こういう家庭の紛糾もまんざらよその話とばかりは聞けなかった。いつか自分の身の上にもはじまらなければならない嫁|舅姑《しゅうと》の田舎らしくせまい日常の底にかくされているうすら気味わるいものの影が計らずもそこに見えがくれしているようで、遠いようで近いような現実的な圧迫を感じさせられるのであった。
 お縫は、やがて下駄を突かけて、ゆうべの浅蜊の殼をもって裏へまわった。古い無花果《いちじく》の木の下に手造りの鶏小舎がある。お縫はトウトトとよびながら、先ず玉蜀黍《とうもろこし》の実をまいてやり、どこかへ運ぶ塩俵のつんであるねこぐるまの置いてあるわきの丸っこ石の上で貝殼を叩き砕いては、小舎の中へなげた。
 裏から見ると、庄平の店と住居とは、麦畑と表の往来との間に、まるで切り出しの刃のように片そげになった狭い地べたの上に随分無理をして建て並べられている。片側は往来のすぐ裏がもう線路で、やっと一側の家が並んでいるだけだし、その向い側はすぐ畑や田圃につづく松山にさえぎられて、村全体が奥ゆきない埃っぽいかまえであった。何年か昔、ここへステーションが出来るというので、何か一つ新しいたつきをと求めて集った家々である。
 村じゅうがひっそり閑として夕方近い西日に照らされているこういうひととき、停車場で汽車の汽笛が一声鳴ると、その音は西日のすきとおる明るさのなかに谺《こだま》して、あっちからこっちの山へとまわって響いた。それは変に淋しかった。つづいてギギーと貨車か何かが軋る音がしてガチャンと接続のぶつかり合う音がしてまたあとはしーんとしてしまうようなとき、お縫は胸のなかをしぼられるように我家をなつかしく思った。
 お縫のうちの方は、こことはちがって、海辺に近い半農半漁の村暮しで、寺の山にのぼると、小笠島というめばる[#「めばる」に傍点]のよくとれる島のまわりからずーっと瀬戸内海が見渡せた。村の浜は風景が美しいので有名な海浜で、昔ながらの村落は、海辺をかこむ松林のこちらから、背戸に枝もたわわに黄色くみのっている夏蜜柑の樹を茂らせて麦畑や田の間に散らばっている。田をつくるに水不足で、どこの農家でも井戸を掘りぬいて灌漑した。
 この村から一里ばかり先に大きい湾に面した港町があって、鉄道がしけるまでは東北から出まわる北米《きたまい》は一旦すべてこの港に集められ、そこから九州や山陰へ回漕されている。庄平兄弟の母親は、そういう商売を大きくやっている回漕問屋の娘であった。そんな関係から、代々油屋だった国広屋が、米へ手を出すようになった。
 ところが、この地方に汽車が開通すると一緒に、港はさびれ、従ってその港の活気でひき立てられていた村の暮しが年々深い眠りの中へとりのこされてゆくようになった。国広屋が落ちめになったのはこれも一つの理由であったが、庄平に云わせると、没落は又別の理由で早められたことになった。
 明治時代には十年おきぐらいに日本として初めての大戦争や事変があって、庄平は、三十を越すまで三度戦に従軍した。兄貴が兵士ぐらしをしている間に、弟の順平は、おのずから家代々の鰭《ひれ》を一人の身につけて、金使いも覚え、汽車が開通したときは、米を運ぶより頻繁に白足袋をはいた順平が、半時間でゆける小都会の夜の明るさへ運搬されるようなことになった。その借財もある。そこへ大正七八年の大恐慌が最後の破綻を与えた。庄平はその時分、今順平のいる村の本家に商売していたのだったが、その破滅から国広屋を立て直そうと勢猛に、弟と入れかわって停車場の村へのり出した。
 順平が選挙運動にかかわりあったり、土地の仲介をしたり、一定の職業のない村での旦那暮しをはじめたのはそれからのことである。順平に云わせれば、こんな眠った村で、することがないのであった。そういう順平を庄平は、働く堅気な心がないからだと判断した。そして、互に気ごころの喰いちがったまずい衝突が捲きおこされて、それには自然どちらの一家も家じゅうが影響されるのであったが、順平はそういうとき、ほっとした口元で華奢な指にはさんだ敷島の煙をふきながら、妻や息子娘たちを自分のまわりにあつめて云った。
「どだい、お母はんと兄貴とは十八のときからわしをどう扱った。宮の森に養子に行かせて、戻したと思えば、折角一旗あげようと大阪まで出ているところを、わいわい云うてもどしよる。そらどこへ使にゆけ、ここへゆけ。困ると、わしを呼んですきなほど使いよるって来て、一遍でもこちらの身を思うてじゃったか。いいかげん面白うなくなるは当り前じゃ」
 お縫は、娘の感情で父親の述懐を忘れ得なかった。その忘れ得ない感情のままで、庄平のまるで反対の解釈から出る様々の仕うちを見ているというこみ入った伯父姪のいきさつにおかれているのであった。
 海沿いの村の暖い春の日光は、ほしいままに繁っている雑草の中に、建ちぐされかかった三棟の大鶏舎をゆったりと永い日がな一日照していた。台所の裏の三和土《たたき》のところには、埃をかぶって大きな孵卵器が放りこんだままにある。こちらの村住居ときまったとき、順平は広い屋敷の地面から思いついてこの近隣では類のない大仕掛けの養鶏を思い立った。名古屋へ上の息子を講習にやったり、名古屋の方から専門家を招んだりして暫く最新式な養鶏に熱中したが、眠っている村では採算がとれなくて、しまいには雇い男がこっそり鶏を抱え出して飲んだくれたりする始末となってやめた。
 順平の思惑は、いつも村に流れて来る時勢より三四年は先を行く塩梅になった。そのために大損をして兄庄平と大揉めしたバス会社の経営にしろ、順平がすっかり損をして信用も傷つけた揚句やめてから、僅か四五年あとにやりはじめた佐伯は、同じ事業で今では一財産をつくった。
 屋敷は荒廃して、昔代々そこで油を搾っていた作業場は、元のところにがらんとした壁と屋根とをのこして建っている。別棟の二階には油製造につかった麻袋を織る機台が組立てられたまま蜘蛛の巣が張られている。いくらか織りかけの布が挾まれているままでもう何年そうやってうっちゃらかされているだろう。お縫は小さい時分から、それを見ながら雨の降る日はそのよこでままごと遊びをした覚えがある。
 収拾のつかない破綻が落ちている倉の外壁や青草にまで滲み出ているようなのに、順平は、町から買って来る繻子足袋をはいて、そこだけはしっかりしている新建ちの座敷で、小さい急須から小さい茶碗にとろとろと茶を注いでのんでいた。そこから見える中庭だけは丹念に手入れされていて、苔は美しく日をうけて緑色であった。池に金魚が泳いでいた。厠に床の間がついていてそこに刷りものの松園の美人画と香炉とがおいてある。その新建ちの座敷の縁側には都会風な硝子戸が入っているが、床の間や欄間の壁は今に中塗りのままで何年かを経た。そこまでやりくりがきかな
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