「ちょっと帳簿つけてしまわにゃならんから、待ッつかわせ」
 店では、さっきの処に坂口の爺さんが、火をつけない煙管を指の間にもったままかがまって、一枚の刷物を読んでいた。この春、西本願寺の若い法主が徳大寺公の姫と結婚する。費用は七十万円であった。西本願寺はそれについて、こういう地方の末寺の檀家にまで一口七十銭ずつの割当をきめて寄附を求め、その代りとして、裏方になる若い姫の和歌と法主の書いた字を赤と緑との色紙重ねの模様のうちに刷った扇子を配った。
「――やすうないな、実費はなんぼほどのもんじゃあろ」
 仔細に眺めていた坂口が、その扇をしめて刷物の上に置いたとき、
「はや、ここもまわりよったんか」
 勢のいい幅のある声とともに土間へ入って来たのは、相変らず年代も分らぬ古|天鵞絨《ビロード》の丸帽子をかぶった重蔵であった。
 おさやは、この店の帳場と云うべき机の前から頭をうごかして挨拶をした。重蔵は、背の高い頑丈な腰を軽くかがめると一緒に頭から丸帽子をぬぐ、丁寧なようなそうでないような独特の辞儀をしながら、
「大将の工合はどうで」
 庄平の起きかえっている中の間の方を覗けた。声を大きくして、
「どうで――ぬくうなったで安気なやろ」
 庄平は、猫背になって首を前へつき出し、造作の大きな顔の中で眼玉を気むずかしげに左右に動かしている。重蔵の挨拶には何とも答えない。
 重蔵は一服吸いつけてから、坂口に向って云った。
「この頃はじょうし茂一の店へおいでるそうじぁないけ」
「……そうもいかん」
「どうで――大分儲かりよったか?」
 薄|痘痕《あばた》をその間にかくしているような皺の多い面長な重蔵の顔には笑いが浮んでいる。七十を越えても全身の構えに油断なさが漲りわたっているこの重蔵に比べると、十も年下の坂口の近頃の肩の落ち工合がまざまざとわかる。坂口は重蔵の笑い顔に溢れている嘲弄を感じる余裕もない様子で、声を低め、
「――こんどは、醤油屋が儲けよった」
とまた真面目に繰返した。
「醤油屋?――どこの……」
 するとおさやが、どういうわけだかこのとき、少し怒ったような声を出して、
「飯田どすがな!」
と説明した。
「ふーん。あすこ、そんなに持っちょるか?」
「持っちょる!」
 しばらくそれなり皆が黙っていた。やがて重蔵が煙草の吸い殼をおとしながら、
「坂口はん、あんた、ひとの儲けた話ばかり数えておいでるが、自分が儲けなんじゃ仕様がないやないか」
 瀬戸ものの総入歯の不自然な歯並びを見せて、おさやに目配せするように笑った。自分の富に対する揺がぬ自信と、世の中のけわしい貧富の流れの間から何を掴んで来るかを心得た地主の笑いかたである。大正七八年の恐慌で庄平の一家が初めて倒産に瀕したとき、ともかく店を続けさせたのは坂口であった。その金にはもとより利がついた。それから二十年近い歳月は、その頃どこか北海道の方にいた重蔵を世間の表に浮き上らせ、坂口を次第に寒げなこの世の横丁の方へと追いはじめている。
 これから失うものはもう手足の働きで決してとり戻せない年になって俄に株にこり出した坂口の姿は、みるたびおさやの心に恐怖に似た感情をかき立てるのであったが、その一方に、怖いもの見たさのような気持もある。唖の息子一人を持っていて、三十越して嫁もないその唖息子が金銭出納の帳簿をふりまわし、やがては鍬をふりあげて、株ですりつづける親父を追っかけまわすという有様を想ってぞっとしながら、不思議な力にひきつけられて、その悲惨な過程を一つあまさず目に入れたいような気も心のどこかに働くのである。
 この二人の組合仲間が、村にも響いて来る時代のうつり代りで一方は上り、一方は下る、その不安定な推移の間で自分たち一家が汗水をたらし、じりりじりりと競売から家をも救いはじめていることを思い、おさやは思わず坐り直して皸《あかぎれ》のある手を深く襟元にさし入れた。
 煉炭火鉢をさし挾んで、重蔵に気押されるなりに坂口は抵抗している。
「あんたが、あのとき千円出さなんだからあかんのや。わしが五百円、あんたが千円出したら、利だけはちゃんとまわすと云うのに、きかなんだからさっぱりあかん」
「わしは、株という名のつくもんは大根の株でも気にいらん。株にすてる金があったら、女子にすてる方がなんぼかええ。おなごならすてる金だけの愛想はまきよる」
「株ちゅうものは、儲かるように出来《でけ》ちょる。そんでなくて政府が許しとくものかな」
「そんならなんで坂口はんは損ばかりしといでるんじゃ。若い頃、横浜でチーハーにかかりよって、わしは懲りちょる。飯も食えんようになりよった。株はいかん! こっちに二百円儲けた者があれば、きッとどっかにそれだけ損しちょる者がある。畑なら何がないようになっても、食うてだけはゆける」
 体のが
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