んな相手を斃《たお》したことは、むしろ当然というべきではある。
が、嬉しい。この上なく張合がある。
土地や金が、ただ「殖える」とか「広くなる」とかいう、そんなやにっこい言葉で彼女の快感は表わせないほど、熾《さか》んなのであった。
彼女は、しんから自分自身の生命の栄えを讃美しながら、次の対照の現われを強い自信と名誉をもって待っていたのである。
が、禰宜様宮田は……。
憤るには、彼等はあまり疲弊していた。
海老屋から使がその趣を伝えて来たときでも、彼等夫婦はまるで他人のことのように、ぼんやりした、平気な顔をして聞いていた。
何だかもう、頭の中が真暗になって、感じも何も皆どこへか行ってしまったような心の状態になっていたのである。
絶えず口元に自嘲的な笑を漂わせながら、唇を噛んでいるお石は、すっかり自暴自棄になってしまった。
まだ何か望みがあり、盛り返せるかもしれないという未練が残っていたときには、懸命に稼ぐ気にもなり、怨む気もしたけれども、こうまで落ちきってしまえば、絶望した彼女の心は自棄《やけ》になるほかない。
「へん海老屋の鬼婆あ!
何んもはあねえくなるまで、さっさとひっ剥《ぺえ》だらええでねえけ、小面倒臭せえ。
乞食《ほいと》して暮しゃ、家《ええ》も地面も入用《い》んねえで、世話あねえわ!」
黙り返っているお石は、折々不意にはっきり独言しながら、ゴロンと炉辺に臥《ね》ころがったりした。
禰宜様宮田も、もう土地も何にも入用《いら》なかった。ただどうかして、今のいやな心持から一刻も早く逃れたいばかりなのである。
ほんとにお石の云う通り、乞食《ほいと》して暮しても、このごろのように怨みの塊りのようになっている境涯からぬけられたら、それでいい。
こっからここまじゃあ俺らがもん、そこからそこまじゃあ汝《ぬし》がもんと、区別う付けて置くから、はあ人のもんまで欲しくなる。
地体《じてえ》、どなたか様は、そげえな区切りい付けて、地面お作りなすっただべえか?
欲しいもんだらはあ遣るがえ……。
最初の間、彼はもうすっかり諦めて、綺麗《きれい》さっぱりいつでも、土地でも家でもよこせと云うものを、遣ってしまえるような心持でいたのである。
けれども、やがて近所の者達の同情が、彼の決心を動かし始めたのであった。
いつとはなし、宮田一族の迫った難渋を知った者達は皆同情して、世界中の悪口をあらいざらい、海老屋の人鬼、生血搾りに浴せかけた。
口では、まるで一ひねりに捻り潰してくれそうな勢で彼女を罵ることだけは我劣らじと罵る。
けれども、若しその公憤を具体化そうとでも云えば、彼等は互に顔を見合わせながら、
「はあ……
相手《ええて》がわれえ……」
と尻込みをして、一人一人コソコソと影を隠してしまうだろう。
それ等の同情も、いざという肝腎の場合にはさほどの役には立たない。何と云って禰宜様宮田の肩を持っても、どれほどひどく海老屋の年寄りをけなしても、つまりはなるようにほかならないにきまっている。
そこまで俺等《おらら》の力あ及ばねえということを、云う方はもちろん云われる方も漠然と感じている。
いくら無責任な同情だといっても、慰められ、辛い境遇を共に悲しんでもらって厭な心持はしないのみならず、却って彼等は事件の結果に何の責任も持たないからよけい禰宜様宮田の心を動かすような言葉を、口から出まかせ、行がかりにまかせて喋る。
諦めていたはずの土地に対しても、また新しい執着――強い、もうあんなに単純には諦めきれない未練――を覚えるとともに、怨みとも憤とも区別のつかないようにもしゃもしゃした心持が蘇返って来て、禰宜様宮田をどのくらい苦しめているのか。
そういうことは、彼の仲間の一人として考え及ぶ者はなかったのである。
慰められるにつれて、しんから底から自暴自棄になっていたお石は、ようよう気を持ちなおすに従って、体ごと真黒焦げに成ってしまいそうな怨みの焔が、途方もない勢で燃え熾って来るのを感じた。
何かしてやれ!
何とかしてくれたら、はあなじょうに小気味がよかっぺえ!
二六時中、人間のような声を出して怨念が耳元で唆《そその》かす。
よくも、よくも、こげえな目さ会わせおったな!
今に見ろ!
大黒柱《でえこくばしら》もっ返《けえ》して、土台石《どでえいし》から草あ生やしてくれっから!
いても立ってもいられないような気持になったお石は、ほとんど夢中で納屋へ馳けこんだ。
そして、まるでがつがつした犬のように喘いだり、目を光らせたりして鼻嵐しを吹きながら、そこいらに散らかっている古藁で、人形《ひとかた》を作りにかかった。
彼等の仲間では昔ながら恐ろしいものにされている祈り釘をこの人形に打ちこんで海老屋の人鬼の手足を、端々から腐り殺してやりたい! 祈り殺さずにおくものか!
手先はブルブル震えるし、どうやったらこのバサバサな藁が人形になるかも分らない。
いくらしても片端じから崩れたり解《ほぐ》れたりしてものにならない藁束に向って、彼女の満身の呪咀と怨言が際限もなく浴せかけられたのである。
引きちぎったり踏み躪《にじ》ったりした藁束を、憎さがあまって我ながら、どうしていいのか分らないように足蹴にしながら、水口まで来ると、お石は上り框《かまち》に突伏してオイオイ、オイオイと手放しで号泣した。怨んだとて、呪ったとて、海老屋の年寄にはどうせかないっこないのだということが、口でこそ強そうなことを云っていても、心にはちゃんと分っているから、お石は一層たまらない。
胸を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12、238−3]《むし》られるような心持になりながら、娘達をつかまえては泣き出し近所の者に会っては怨みを並べている彼女の、厚みのないへこんだ額には、一日一日と皺が増えて、鼻のまわりに泣き皺が現われた。
もうまるで子供ではない娘達は、両親の苦痛は充分同情していた。
が、さてどうしたらいいのかということになると、彼女等は、ほとほと途方にくれてしまう。
そして、ごくごく単純な彼女等は私に遣らなければならないものなら、やったってよさそうなものだのに、……町へ行って奉公したって食っては行けるくらいに思っていた。
もちろん、親達の苦しんでいる様子に対して、それを口に出すことは、いかな彼女等でも出来なかったけれども自分等自身としてはそんなに辛くはなかった。
始終、心から離れない何か陰気な悲しいものがあると彼女等の感じていたのは、事件そのものの苦しさよりも、むしろ、大人達のように沈んで悲しく自分等を持して行かなければならないという感じが与えたものなのである。
「おめえんげでも、えれえこったなあ、まきちゃん」
「ああ……」
さも心を悩まされているように、ませた表情をして返事をしながら、実はそう云われても、とっさに何がえれえこったったのか心に浮ばないようなことさえあったのである。
いくら心の複雑でない禰宜様宮田だとても、子供等のように、そう単純に事を見て行くことは出来ないし、またそうかといって、お石のように、一目散に怨みこんではしまわせてくれないものを、自分のうちに持っていた。
人を怨んだり、憎がったりするなあ、はあ真当なこっちゃあねえ。
そう知りながら、恨めしいような心持や、憎らしいような心持が、忘れようとしても忘られず心にこびりついているから、彼はせつないのである。
もうやがて近々に別れなければならない、耕地を見歩きながら、このことを思う彼の眼には、いつでも止めるに止められない涙が湧き出して、大きい、あの子供らしい目が何も見えなくなってしまうのが常であった。
海老屋の御隠居……俺が田地……子供等……俺が死んだ後あ、はあ何じょって奴等あ暮してんべえ。そして、あの海老屋の若者を救い上げたときの歓《うれ》しさを思い出すと、彼は全く堪らなくなる。
今はもう、皆どこさかぶっとんで行ってしまったあのときのあんなに仕合わせだった心持を思い出すと、それが追憶である故に――これから二度と会うことの出来ない、昔の思い出であるために――一層慕わしく、なつかしく胸を揺られる。
こういう原因《もと》に「それ」がなったのだと思うと、ほんとに何とも云えない心持がして来るのである。
一思いに、あのときの「その喜び」も何も、皆怨みや憎しみで塗り潰してしまえれば、それは却って結構かもしれない。
が、そうはならない。今の苦しさが強ければ強いほど、あのときの思い出は、はっきりと、あのときのままの新しさをもって浮み出して来る。あのときの通り明るく、暖く歎いて行く自分を迎えてくれるのである。
それがたまらない。
彼の心は、ただ土地が惜しい、年寄りの仕打ちが恨めしいというばかりではない、あのときの、あの歓びを憶い起すに耐えないような心持が――それだのにまた、憶い出さずにはいられない一見矛盾した感情が、自分でどう自分を処していいか分らないように湧き上る。
生活の基礎が、ぐらついている不安、家族の者共に対する愛情、真当な何物かに対する憧憬等が、彼には一つ一つこういう風な区別をつけられていないだけ、それだけ混雑したひとしお悩ましい心持になって、彼等の言葉で云う心配負《しんぺえま》けにとっつかれた状態にあったのである。
重い白土の俵を背負って、今日も禰宜様宮田は、急な坂道を転がりそうにして下りて来た。
窮した彼は、近所の山から掘り出す白土――米を搗《つ》くときに混ぜたり、磨き粉に使ったりする白い泥――を、町の入口まで運搬する人足になっていたのである。
できるだけ賃銭を貰いたさに、普通一俵としてあるところを、二俵も背負っているので、そんなに力持ちでもない彼の肩はミシミシいうように痛い。
太い木の枝を杖に突いて、ポコポコ、ポコポコ破れた古鞋《ふるわらじ》の足元から砂煙りを立てながら歩いて来た禰宜様宮田は、とある堤に荷をもたせかけるようにしてホッと息を入れた。
さっき行った人足も、やはりここでこうやって休んだとみえて、枯れかけた草を押し伏せて白土の跡が真白く残っている。
滲み出した汗を拭きながら、彼はあたりを見まわした。
すべてが寂しい。
滅入《めい》るように静かな天地には、もうそろそろ冬の寒さが争われない勢を見せて、すがれた叢《くさむら》、音もなく落葉して行く木立の梢を包んで底冷えのする空気がそこともなく流れている。
やがては霜になろうとする霧が、泥絵具の茶と緑を混ぜて刷いたような山並みに淡く漂って、篩《ふる》いかけたような細かい日差しが向うにポツネンと立っている※[#「白/十」、第3水準1−88−64、240−20]角子《さいかち》の大木に絡みつき、茶色に大きい実は、莢《さや》のうちで乾いた種子をカラカラ、カラカラと風が渡る毎に侘しげに鳴りわたる。
ジジー――ジジー――……
地の底で思い出し思い出し鳴く虫の声を聞くともなく聞いていた禰宜様宮田の心のうちへは、また海老屋のことが浮んで来た。
「……なじょにしたらよかっぺえ……」
幾度考えたとて、徒に同じ埒の中を堂々廻りするほかない。
彼は駸々《しんしん》と滲み出して来る無量の淋しさと、頼りなさに、自分の身も心も溺れそうな気がした。
今までは自分の後にあって、目に見えぬ支えとなっていてくれた何か、何かの力が、もうすっかり自分を見捨てて独りぼっち取りのこしたまま、先へ先へと流れて行ってしまうような心持がする。
何も彼にもが過ぎて行く……。
グングン、グングンと何でも彼んでも、皆どっかへ飛んで行ってしまう……。
いたたまれないような孤独の感に打たれて、彼の魂は急に啜泣きを始めた。
空虚《からっぽ》が彼の心にも蝕んで来た。
彼の知らない涙が、あてどもなく凝視《みつ》めているあのいい眼から、糸を引くようにこぼれ出て、疎らな髯のうちへ消えて行った。
五
収穫の後始末もあらかた付いて、農民がいったいに暇になると、かねがね噂のあった或る新道の
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