開拓が、いよいよ実行されることになった。
町の附近にあるK温泉へ、今までは危い坂道で俥も通れなかったのを、今度その反対の側の森を切り開いて、自動車の楽に通る路をつけようというのである。
募集された人夫の一人となった禰宜様宮田は、先ず森の伐採から着手することになった。白土運びをするより賃銭も高し、切り倒した樹木の小枝ぐらいは貰っても来られるという利益があったのである。
深く、暗く、鬱蒼《うっそう》として茂りに茂っている森は、次第次第に開けるにつれて粗雑にばかりなって来た町に、まったく唯一の尊い太古の遺物であった。
すべてがここでは幸福であった。
たくさんの鳥共も、這いまわる小虫等も、また春から秋にかけて、積った落葉の柔かく湿った懐から生れ出す、数知れない色と形の「きのこ」も差し交した枝々に守られて各自の生きられるだけの命を、喜び楽しむことが出来ていたのである。
けれども、にわかに荒くれた、彼等の仲間ではこんなに無慈悲で、不作法なものはなかった人間どもが、昔ながらの「仕合わせの領内」へ闖入《ちんにゅう》して来た。
そして大きな斧が容赦なく片端《かたっぱ》しから振われ始めたのである。
まだ生れて間もない、細くしなやかな稚木共は、一打ちの斧で、体じゅうを痛々しく震わせながら、音も立てずに倒れて行く。
思いがけない異変に驚く間もあらばこそ、鋭い刀を命の髄まで打ち込まれ打ち込まれした森の古老達は、悲しそうに頭を振り動かし、永年の睦まじかった友達に最後の一瞥を与えながら次から、次へと伐られてしまう。地響を立てて横たわる古い、苔や寄生木《やどりぎ》のついた幹に払われて、共に倒れる小さい生木の裂ける悲鳴。
小枝の折れるパチパチいう音に混って、
「南へよけろよーッ、南ー」
ドドーンとまたどこかで、かなり大きい一本が横たわる。
パカッカッ……カッパ……カッ……パカッカッ……。
せわしい斧の妙な合奏。
樵夫《きこり》の鈍い叫声に調子づけるように、泥がブヨブヨの森の端で、重荷に動きかねる木材を積んだ荷馬を、罵ったり苛責したりする鞭の音が鋭く響く。
ト思うと、日光の明るみに戸惑いした梟《ふくろう》を捕まえて、倒《さか》さまに羽根でぶらさげながら、陽気な若者がどこへか馳けて行く。
今まで、森はあんなに静かな穏やかなところと、誰の頭にもしみ込んでいるので、これ等の騒ぎは、この上なくいやな、粗雑な感じを与えた。
始終落付のない、ここのがさつな騒動が、どこともなく町にも伝わって、往来に落葉などを散らせながら、立派な樹々が運ばれて行くのを見ると、皆互の癖になっている嘘つきから、平気そうな顔はしていても、何かしらが心の底で動く。
ああやって伐《き》るのは惜しいようだが、また自分の手で、あれほどの大木を伐り倒せたら、面白かろうなあ。
すっかりまるはだかにされた樹々が、一枚の葉さえないような太い枝を、ブッツリ中途から切られて、寒げに灰色の空に立つ様子。塒《ねぐら》を奪われた烏共が、夕方になると働いている者の頭の上に、高く低く飛び交いながら鳴くのなどをみると、禰宜様宮田は振り上げた斧も、つい下しかねた。
森中の木魂の歎息が、小波のように自分の胸にもよせて来て、彼は心が痛むような気持がした。
いくら木は口を利かないからといって、同じ生きているものを、こんなにむごたらしく、気の毒だとか可哀そうだとか思う方が馬鹿《こけ》だというようにして、まるで楽しみにでもしているように、バタンバタンと切り倒して行かないでも、どうにか成るのじゃあ、あるまいか、今まで幾百年かの間茂って立派だった森も、巣くっていた鳥共も、草もきのこも何も彼も、皆無くなしてしまったところへ、あんな古ぼけた一台や二台の自動車が馳けて行くからといって……そこにどんなにいいことがあるのだろう。
禰宜様宮田は、人があまり損得に夢中になっているので、却って上気《のぼ》せ上って自分にははっきり分る損得を、逆に取り違えているのではあるまいかなどとも想う。けれども、もちろん口に出しては一口も云う彼ではない。黙ってまるで蟻のように働く禰宜様宮田は、寄り集り者の仲間から、あっぱの宮田――唖《おし》の宮田――という綽名をつけられて、心さえ持ってはいない機械《からくり》、ちいっとばっか工合のええ機械のように、ただ泥づかりになって働くほか能のない人間だと思われていたのである。
森がだんだん開けて来る頃から、そろそろ冬籠りの季節になって来て、雪などに降りこめられた禰宜様宮田が町から請負って来た粗末な笊《ざる》だの蚕籠だのを編んだりするようになると、例年の通り町から、紡績工女募集の勧誘員が、部落の家々を戸別に訪問しはじめた。
紡績工場やモスリン工場へ、まだ十に手が届くか届かないような子まで、十年十五年と年期を入れて働きにやっては、いくらかの金を前借するのが、彼等の仲間にとっては、さほど恥ずべきことではない。
禰宜様宮田は、近所の誰彼が、
「まあ、へえ、よし坊は十円け? よっぱら割がええなあ、俺《お》らげんなあお前《めえ》んげと同じい年でも、いまちいっとやせえわ。
まちっと相場あ見てっと得したんだになあ」
などと云っているのをきいた。
もう十六と十三になっている彼の娘達は、勧誘員が来ると一緒に、そのさもいいことずくめらしい言葉から多大の好奇心をそそられた。
何というあても決心もない。
ただその多勢でそろいの着物を着て、唄をうたいながら糸をとるということがして見たいのである。
町の工場で働く。そこに何かここにいてはとうてい得られない名誉と幸福があるような気がする。
友達だった娘が行くことにきまったなどと、さも嬉しそうに誇らしげに告げると、二人は妙に後れちゃあ大事《おおごと》だという心持になって、こっそり納屋の蔭や、畑の隅で相談する。
大業に相談するとは云っていても、事柄は簡単なものである。
「さだちゃんよ。
こんねえだ俺ら、新やん家《げ》で聞いたけんど、工場さ行ぐと、毎日《めえんち》毎日《めえんち》牛《ぎゅう》ばっか食わして、衣裳までくれんだって……
俺らこげえな貧乏家にいるよら、何ぼかええと思うなあ。
お前《めえ》どう考《けんげ》える?
阿母《おっか》ちゃんさきいてんべえか……」
「ふんとになあ、
俺らも行ぎてえわ、姉ちゃん、
お前《めえ》と二人《ふたん》で行ぎあ、おっかねえこともあんめえもん……」
娘達は、このくらいのことを云ってしまうと、もう後に云うことも考えることもなくなるので、いかにも思案に耽っているようにお互に寄りかかり合って、黙ってはいるものの、妹のさだなどはいつの間にか、ほかの考えに気をとられて、何のためにこうやって立っているのか分らなくなるようなことさえあった。
彼女等が打ち開けかねているとき、母親のお石もまた、心のうちで同じことを考えながら、これもまた娘達に云いだしかねていた。
今のこのひどい中で二人の口が減ることだけさえ一方《ひとかた》ならないことだのに、その上いくらかは入っても来ようというものだ。
彼女等《あれら》だってまんざらの子供ではなし……
そう思っているところへ、娘達の方からどうぞ遣って下さいと切り出したことは、お石にとって何よりであった。早速三人は、禰宜様宮田の許しを乞うたのである。が、お石は彼が主人であるという名に対してとった一種の形式なので、若し彼がいけないと云ったところで、自分が遣ろうという決心はどこまでも貫徹させるつもりではあったのだ。
話の模様では大変いいらしい。
けれども町の様子や、そういうところの仕来《しきた》りなどを皆目知らない禰宜様宮田は、責任をもって判断は出来なかった。
「俺ら、おめえ等に指図あしかねる。
けんども、はあ何んでもお前等《めえら》が仕合せになってんだら、行ぐも悪かあなかっぺえ。
俺ら、おめえらが仕合せにせえなりゃ、どの道、何よりはあ嬉しいだからなあ……」
自分のような、利口に世の中を立ちまわれない者を父親にもって、何の仕合せも受けられない娘達が、自分等で働いていい目に会って行こうというのに、そりゃあいけない、止せとは云いきれない。云いきれないだけ彼は娘に愛情を持っていたのである。
いやがる者をとめて置いて、もうどうせ潰れるにきまったような家と運命を共にさせるには忍びない。
決心しかねて彼が迷っているうちに、話はぐんぐんはかどって、とうとう娘達は五年間の年期で町へ行くことになり、二十五円の金が親達に渡された。
娘達は、まるで祭り見物に行くように嬉しがって、はしゃいで行ったのだけれども、証文と引きかえに渡された金を見ると、禰宜様宮田は何ともいえず胸のふさがるような心持になって来た。
俺の心に済まないから、どんなことがあっても、この金ばかりは決して使ってはならないと、お石に堅く云いつけて、彼は彼女に知らさないようにして、古|葛籠《つづら》の底へ隠してしまった。そして自分でも二度と見ようとはしなかったので、あっちこっち、散々|索《さが》しまわったお石が、とうとうそれを見つけ出して、何ぞのときの用心にと、肌身離さず持っていようなどとは、夢にも知らなかった。
裏から紙を貼ってある一枚の十円札、まだ新しいもう一枚の十円と五円とは、黒っぽい襤褸《ぼろ》にくるまって今もやはりあの古綿の奥に入っているものと、彼は思っていたのである。
そして、独り遺った息子の六に、唯一の頼りを感じて暮して行くはずだった自分の心が、日を経るに従ってとかく去った娘達の上にばかり傾けられるのを知った。赤坊のうちから眺めて暮して来た彼女等に対して、毎日顔を合わせ、いるにきまったものとなっていたときは、別にそう大していないときの淋しさも思わず、また彼女等が家庭生活にどれほどのうるおいを与えているかも、気づかなかった。
けれども、いなくなって見ると、一種異様の淋しさと物足りなさがある。
ちょうど、絶えまなく溢れ出していた窓下の噴水が、急にパタリと止まってしまったときに感じる通りの心持――何でもなく耳馴れていたお喋り、高い笑声が聞えない今となると、たまらなく尊い愛くるしい響をもって、記憶のうちに蘇返るのである。
どことなく丸味のついて来た体を、前や後にゆすぶりながら、僅かなことにも大笑いする娘達がいなくなってから家中は、何という活気に乏しくなったことか……。
土間の隅や、納屋に転がっている赤勝ちの古下駄や、何かの折に出る古着などを見ると、禰宜様宮田は、字を知らないので手紙をよこせない娘達に、どうぞ仕合せが廻《めぐ》って来ますように祈らずにはいられなかったのである。
禰宜様宮田は、いつもの通り地面を掘っていた。
五間幅の道路は、三四町まっすぐに延びて、一つ大きくカーブしたところから、ダラダラ坂になって、ズーッと下の温泉の中央まで導かれるはずなのである。
もうそろそろ昼頃かと思う時刻になると、彼の仲間として一かたまりになっている七八人の者の中の一人が、
「とっさん頼むぞ、
飯《まんま》の茶あ沸かしてくんな」
と、云って後の方に鍬を振っている禰宜様宮田を振り返った。
「ふんとに、はあ昼だんべ、
とっさんよ!」
禰宜様宮田は、穢《きた》ない小屋掛けへ戻って行った。そして大きなバケツを下げて、足袋の中でかじかむ足を引きずりながら小一町ある小川まで水を汲みに行く。
これは毎日の彼のお役目にされてしまったのである。
あっぱの宮田は、ほんとにはあ機械《からくり》同然だ。何をしても憤らなきゃあ、小言も云わない。頼むぞと云いさえすりゃあ否《いや》と云えねえ爺さまだ。
強い者勝ち、口の先だけでも偉そうな気焔を吐く者が尊ばれるこういう仲間では、黙って何でも辛棒する禰宜様宮田は、一種の侮蔑を受ける。彼の美点であり、弱点である正直などこまでも控目勝ちなところを彼等は、どしどしと利用するのである。
利用するとまではっきり意識しないでも、皆があまりぞっとしないことを、禰宜様宮田のところへさえ持って行けば遣ってくれ
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