とう吐《こ》くだ!
 何ぼうはあ貧乏してても、もとあ歴《れっき》として禰宜様の家柄でからに、人に後指一本差さっちゃことのねえとっさん捕《つか》めえてよくもよくも……
 よくもよくもそげえな法体《ほでえ》もねえことを吐かしてけつかる!
 何ぼうはあ」
 真青な顔をして、あの黒子《ほくろ》を震わせていた禰宜様宮田は、気を兼ねるように、猛り立つお石の袂を引っぱった。が彼女はもう止められないほど気が立っている。
 邪慳《じゃけん》に彼の手を払いのけるとまた一にじり膝行《いざ》り出て、
「何ぼう、はあ金持だあ、海老屋の婆さまだあと、偉れえことうほぜえても、容赦なんかしるもんけ!
 祈り殺してくれっから、ほんに、
 俺らほんにごせぇひれる!」
と一息に怒鳴ると、発作的に泣き始めた。
 禰宜様宮田は、すっかりまごついた。当惑した。
 云わなければならないことがたくさん喉元まで込み上げて来ている。
 けれども、どうしても言葉にまとまらない。何とか云わなければならないと思う心が強くなればなるほど、彼の舌が強《こわ》ばって、口の奥に堅くなってしまう。
 彼は徒《いたずら》に手拭を握った両手を動かしながら、訴えるような眼をあげて油を今注いだ車輪のようによく廻る番頭の口元を眺めた。
「まあまあそんなにお怒んなさんな、
 御隠居だって、無理もないんだ。ああやってせっかく気を揉《も》んで使をよこすと、片っ端からいらないいらないじゃあ、誰にしろいい心持あしないもんです。
 あんまり勝手がすぎると、ついそこまで考えるのも、年寄りにゃあ有勝ちのこった。ねえ。
 せっかくこちらも、こうやって決してそんな気はなくているものを、御隠居にそうとられるというなあ、全くのところ損どころの話じゃあない。察しまさあ、だから今度あおとなしく御隠居の志を通しなさい、ね、そうすりゃあ決して悪いこたあない」
 最後の「御褒美」として、今明いている十三俵上りの田を十俵に就き三俵で貸そう。これまで云って聞かなければどうしても、御隠居の疑いを事実と認めるほかないと云うのである。
 あんまりひどい!
 あんまり云いがかりも過ぎている。こんな難題がどこにあろう。
 禰宜様宮田は、何か一言二言云おうとして口を開いた。が、あせる唇の上で言葉になるはずの音が切れ切れに吃るばかりで、ようよう順序立てて云おうとしたことは忽ち、めちゃめちゃに乱れてしまう。
 彼はますます深くうなだれるほかなかった。
「例え嘘にしろ何にしろ、あの御隠居が、そうと思いこんだといったら、決してただじゃあすまさない方だ。ことによれば訴えなさるまいもんでもない。
 疑いをかけられるくらい、人間恐ろしいものはないからね。
 すっかり身の証《あかし》も立てて、御隠居の考えも通させた方が、どう考えても得策だね」
 訴え! 訴え!![#「!!」は横1文字、1−8−75] 哀れな夫婦の耳元で、訴えの一言が雷のように鳴り響いた。
 無智な農民の心を支配している法律に関するこの上ない恐怖が、彼等の頭を掻き乱したのである。
 道理の有無に関らず、彼等を一竦みに縮み上らせるのは、訴えてやるぞという言葉である。
 まるで証拠のないことを、若し若旦那が、ええ誰かが後から突落したのを知っていますとでも云えば、いったい俺等は何で、そうでないという明しを立てるのだ。
 調べられるとき、酷《ひど》い目にでも合わされて、苦しまぎれに夢中でそうだとでも云ったら、どうすればいいのか。
 訴え、恐ろしい訴え――それも自分の方には何の強みもなさそうに思われた訴え――が、すぐ目前に迫っていることを思った禰宜様宮田は、もう何をどう考えることも出来ないほどの混乱を感じた。
 体中で震えながら、冷汗を掻いている彼を見ながら、番頭は口の先でまだヘラヘラと喋り続けた。
「考えて御覧な。
 片方は何といっても海老屋の御隠居、片方は失礼ながらお前さん達。
 そうじゃあない違いますと云ったところで、世間様じゃあどっちがほんとだと思うんだね。
 誰が聞いたって、御隠居を疑ぐる訳にゃあいかない。政府のお役人様だって、お前さんと、御隠居じゃあちいっとの手心あ違おうともいうもんだ。
 だから、下らない意地は捨てる方が得、ね、ウンと承知すりゃあ、万事万端めでたしめでたしで納まろうってもんだ。
 え! 承知しなさい、その方が得だよ」
 激しい強迫観念に襲われて、あらゆる理性を失ってしまった禰宜様宮田は番頭の言葉を聞き分けることさえ出来ないようになった。
 まして、それ等のうちに含まれている弱点などを考えることなどは出来得ようもない。
 彼はただ恐ろしい。身にかかる疑いが恐ろしい。
 思想の断片が、気違いのように頭のうちじゅう走《か》けまわる……。
 大きな眼にうっすら涙を浮べて、口を開き暫く呆然としていた彼は、やがてちょっと目を瞑《つぶ》るとほとんど聞きとれないほどのつぶやきで、
「……俺ら……俺らすんだら……」
と、云うや否や押しかぶせるように、
「何? 承知する?
 ああそれでようよう埒が明くというもんだ、さあ、そんならこれにちょっと印を貰いましょうか」
 番頭は、包みのうちから何か印刷したものを出して、禰宜様宮田の前に置いた。
 取り上げては見たが、どうしても読めない。
 字の画が散り散りばらばらになって意味をなさないのを、番頭に助けられながらそれが小作証書であるのを知ったときには、もう一層の絶望が彼の心を打った。
 が、もう何ということもない。
 二度も三度も間違えながら筆の先をつかえさせて名前を書き入れると、彼は黙々として印を押した。

        四

 その田地――禰宜様宮田が実に感謝すべき御褒美として、海老屋から押しつけられた――は、小高い丘と丘との間に狭苦しく挾みこまれて、日当りの悪い全くの荒地というほか、どこにも富饒な稲の床となり得るらしい形勢さえも認められないほどのところであった。
 破産までさせられて、自棄《やけ》になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。
 いったいどこから手を付ければ、こんなにも瘠せきった原っぱのような田地を、少くとも人並みのものに出来るのだろう……。
 けれども、もうこうなっては否でも応でも収穫を得なければ大変になる。
 全く強制的に彼は朝起きるとから日が落ちるまで、土龍《もぐら》のように働かなければならなかったのである。
 禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。
 稲の大半は青立ちになってしまったのである。
 どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、年貢納めの数日前、全く冷汗をかきながら海老屋へ出かけて行く決心をした。
 小作をして、おきまり通りちゃんちゃん納められるものが、十人の中で幾人いる、何も恥かしいことじゃあない、平気でごぜ、平気でごぜ。尋常なこったと云っていられるお石の心持を半ば驚きながら、彼はいろいろと云い訳の言葉などを考えた。
 あの年寄がこんなことを願いに行ったときいたばかりで、何と云うかと思っただけでさえ、足の竦《すく》むような気のする彼は、せめてものお詫びのしるしにと、新らしい冬菜《とうな》をたくさん車にのせて、おずおずと出かけて行ったのである。
 台所の土間に土下座をするようにして、顔もあげ得ずまごつきながら、四俵のはずのところを二俵で勘弁してくれと云う禰宜様宮田を、上の板の間に蹲踞《しゃが》んで見下していた年寄りは、思わず、
「フム、フム」
とおかしな音をたてて鼻を鳴らしたほど、いい御機嫌であった。
 いくら平気でいるように見せかけても、あらそわれない微笑が、ともすれば口元に渦巻いて、心が若い娘のようにはねまわった。
 彼女の計画はこうなって来なければならないのだ。
 こうなると、ああなって、そういう風にさえなると……。
 いろいろな意味において快く承知した年寄りは、負けてやる二俵分を現金に換算して禰宜様宮田に借用証文を作らせながら、ちょうど若い人がこれから出来ようとする気に入りの着物の模様、着て引き立った美くしい自分の姿及び驚きの目を見張るそんな着物を作られない者達のことごとを想像する通りに、そわそわと弾力のある心持で順々に実現されて来る計画に心酔したようになっていたのであった。
 それから三年の間、膏汗《あぶらあせ》を搾るようにして続けた禰宜様宮田の努力に対して、報われたものはただ徒に嵩《かさ》んで行く借金ばかりであった。
 今年こそはとたくさんの肥料を与えれば、期待した半分の収穫もなくて、町の肥料問屋へも、海老屋へも、どうしようもなくて願った借金が殖えて行く。
 今までは、貧しくこそあれ一文の貸しもない代りに、また借りもなく、家内中の者が家内中の手で暮していられた彼等の生活には、絶えずジリジリと生身に喰いこんで来る重い重い枷《かせ》が掛けられた。
 どうにかしてはずしたい。
 何とかして元の身軽さに戻りたい。
 一生懸命にもがけばもがくほど、枷はしっかりと食いこんで来るように、僅かの機会でも利用して借金も軽め生活も楽にさせたいとあせればあせるほど、経済は四離滅裂になって来る。
 ガタガタになり始めた隅々から、貧しさは止度もなく流れこんで、哀れな小さい箱舟を、一寸二寸と、暗い、寒い、目のないものが棲んでいるどん底へと押し沈めかけていたのである。
 ところへ、五年目に起った大不作は彼等一族を、まったく困憊《こんぱい》の極まで追いつめてしまった。
 恐ろしい螟虫《ずいむし》の襲撃に会った上、水にまで反《そむ》かれた稲は、絶望された田の乾からびた泥の上に、一本一本と倒れて、やがては腐って行く。
 豊かな、喜びの秋が他の耕地耕地を訪れるとき、禰宜様宮田のところへは、何が来てくれたのか。
 息もつけない恐怖である。逼迫《ひっぱく》である。
 愚痴を並べ、苦情を云っていられるうちは、貧乏の部には入らないという、そのほんとの「空虚《からっぽ》」が来たのである。
 空虚な俺等《おら》……。
 蓄わえた穀物はなくなるのに、何を買う金もない。何で親子五人の命をつないで行ったらいいのだろう?
 そこへ、海老屋ではまたも難題を持ちかけて来た。
 一俵の米もよこされない。それじゃあすまないから、今まで貸してやっていた金を、暮まで待つから全部返済しろと云うのである。
 食うや食わずで、たださえ生きるか死ぬかの今、無断で一割の利まで加えた百円以上のものを、どうして返せるだろう。
 金で返せない? それなら仕方がない、土地を差押えるぞ!
 これが海老屋の年寄りの奥の手であった。
 最初からこうまでするように、彼女の妙法様はお指図下すったのである。
 現在海老屋の所有となっている広大な土地は、全部こういう風な詭計を用いて奪ったのだと云うことは、決して単にそねみ半分の悪口ばかりだとはいえない。
 そんなことをするに、ちっとも可哀そうだとも、恥かしいとも思わないだけ、充分に彼女の心は強かったのである。
 そして、またその驚くべき強い心に、この上ない誇りを感じている彼女は、何も自分の持っている力を引込ませて置く必要は認めなかった。
 何のために虎は、あんな牙を持っているかね、弱い人間や獣を食うためじゃあないか、私の生れつきだってそれと同じなのだ。それでもうすっかり彼女は安んじていられたのである。
 今度も彼女は、自分の天稟《てんぴん》に我ながら満足しずにはいられなかった。
 もうここまで漕ぎ付ければ、後はひとりでに自分の懐に入って来るほかないいくらかの土地を思うと、優勝の戦士がやがて来る月桂冠を待つときのような心持にならざるを得なかった。
 比類ない自分の精力と手腕をもってすれば、こ
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング