からの手入れは決して忽《ゆる》がせにはできない。
 雇人や作男などは、皆猫っかぶりの大嘘つきで、腹のうちでは何をたくらんでいるか、知れたものでないと思い込んでいる年寄りは、枝一本下すにも始めから終りまで自分の目の前でさせ、納屋へ木束を運ぶまで見届けなければ安心がならない。
 大汗になりながら、馳けまわって監督するのだが、体は悲しいことに一つほかない彼女が、今こっちに来ておればあっちの畑の作男共は、どうしても手を遊ばせたり、ついなまけてしまったりする。
 今朝も、鼻の頭に大粒な汗をびっしょりかいて、大忙がしに働いていながら、どういうわけかおばあさんの頭からは、どうしても禰宜様宮田のことが、離れない。
「妙な男だわえ……貧乏人の分際で……金……何にしろ遣ろうと云うのは金なんだから!」
 汗を拭き拭き年寄りは、
「おい重、お前あれを知ってるんだろう。
 ありゃあ一体どうした男なんだね」
などと訊いた。
「へ……
 どうも、……」
「いったい何で食っているんだね、よくあれで生きて行かれたもんさ」
「ちいっとばっかり桑畑や麦畑を持ってるから、それでやってくんでござりましょう。が御隠居の目から見なさりゃあ、どいつもはあ気違えのようなもんでござりますよ。
 へ……」
 作男達の顔には、彼等特有の微笑が湧く。
 誰か「エヘン!」とわざと大きな咳払いをして、おばあさんが振向く間もなくどこかへゴソゴソ隠れてしまった。
 手元が見えなくなるまで、真黒になって働いていた年寄りは、食事をすませると火鉢の傍で、煮がらしの番茶を飲んでいた。
 いつともなく禰宜様宮田の丁寧なお辞儀の仕振りなどを思い出していた彼女の心には、不意に思いがけずあの妙法様がお乗りうつりなすった。そして、瞬く間に誰が聞いてもびっくりせずにはいないほど、「いい思案」が夕立雲のように後から後からと湧き出して来て、頭を一杯にしてしまった。
 腹心の番頭と、やや暫く評議を凝らしたときには、これからもう五六年も後のことが、ちゃんと表になり数字になって現われていたのである。
 禰宜様宮田の臆病なウジウジした様子が、何か年寄りに「いい思案」のきっかけを与えたらしかった。
 海老屋へ行った禰宜様宮田は、きっとふんだんな御|褒美《ほうび》にあずかって来るものだと思って、待ちに待っていたお石は、空手で呆然《ぼんやり》戻って来た彼を見ると、思わず、
「とっさん、土産《みやげ》あ後からけえ?」
と訊かずにはおられなかった。が、
「馬鹿《こけ》えこくもんでねえ」
と、彼は相手にもしない。
 だんだん聞いて、出された金包みを戻して来たと知ったときには、
「まあお前が……まあ返《けえ》して来たっちゅうけえ!」
 お石は、腹のしんが皆抜けてしまったように、落胆《がっかり》した。暫くポカンとした顔で亭主を見ていた彼女は、やがて気をとりなおすと一緒に、今まで嘗てこんなに怒ったことはないほどの激しい憤りを爆発させた。
 半《なかば》夢中になって、彼をまるで猫や犬のように罵り散らしながら、自分の前かけや袖口を歯でブリブリと噛み破る。
 訳が分らないで怒鳴りつけられたり擲《ぶ》たれたりして、恐ろしそうに竦《すく》んでいる子供達の肩を撫でてやりながら、禰宜様宮田は、黙然としてその罵詈讒謗《ばりざんぼう》を浴びていた。
 それから毎日毎日こういう厭なことばかりが続いた。
 お石は、何かにつけて金を貰って来なかったことを引合いに出して、子供がちょっと物をねだることまで皆彼女の腹癒せの材料にされたのである。
「汝等《にしら》あまでたかってからに、こげえな貧乏おっかあをひでえ目に会わせくさる!
 あんでも父っちゃんに買って貰っちゃ、呉れるちゅう金え、突返《つっけえ》すほどのお大尽《でえじん》たあ知んねえで、我が食うもんもはあ食わねえようにして、稼《かせ》えでたんなあ、さぞええざまだったべえて、
 俺らも、もう毎日《めえにち》真黒んなって働くなあ止めだ、人う面白《おもさ》くもねえ、
 後《あた》あどうでもええようにすんがええや」
 朝でもふて寝をしたり、食事の用意もしないまんま、どこへか喋りに行ってしまったりするので、心のうちではそんなに母親を怒らせた父親を怨みながら、まだやっと十一のさだ[#「さだ」に傍点]が危うげに飯などを炊く。
 暗い、年中ジクジクしている流し元に、鍋などを洗っている姉の傍に、むずかる六をこぼれそうにおぶったまき[#「まき」に傍点]が、途方に暮れたように立ちながら、何か小声で託《かこ》っているのを見ると、禰宜様宮田はほんとに辛いような心持に打たれた。
 自分がいればいるほど、大混雑になる家から逃れるようにして、彼は出来るだけ野良にばかり出ていた。
 けれども、別にそう大して働かなければならないほどの仕事もない。
 耕地の端れの柏の古木の蔭に横たわりながら、彼は様々な思いに耽ったのである。
 透き通りそうに澄みわたって、まるで精巧なギヤマン細工の天蓋のように一面キラキラと輝いている、広い広い空。
 短かい陽炎《かげろう》がチロチロともえる香りのいい地面。
 禰宜様宮田は、ジイッと瞳をせばめて、大きい果しない天地を想う。
 そして、想えば想うほど、眺めれば眺めるほど、彼はあの碧い空の奥、この勢のいい地面の底に何か在りそうでたまらない心持になって来るのである。
 ほんとに、きっと何かが在りそうな気がする。
 それならいったい何が在るのか?
 彼は知らないし、また解りもしない。
 ただ、底抜けでない、筒抜けでは決してないという心強さが、じわじわと彼の心の核にまで滲みこみ、悠久な愛情が滾々《こんこん》と湧き出して、一杯になっていた苦しみを静かに押し流しながら、慎み深い魂全体に満ち溢れるのである。
「何事もはあ真当《まっとう》なこった……」
 天地が広いのが真当なように、何も知らない意くじない自分が小さいのは、辛いことがあるのは決してまちがいではない。
「どなたか」は各自の心に各自違った考えをお授けなさる。それがよし自分と同じでないとしたところで、どうして怨んでなるものか。
 すべてのもののうちに潜んでいる真当、掘り下げて、掘り下げて行った底には、きっと光っているに違いない真当に、強い憧れを感じて、禰宜様宮田のあの子供らしい、上品な眼は涙ぐんだのである。
 貧乏な暮しには、いい魂より金の方が大切だ。
 お石は、唇を噛んでジリジリしながら、どう考えても馬鹿《こけ》の阿呆《あほう》に違いない自分の亭主を呪った。
 家中の責任を皆背負って立っている自分、この自分がいるばかりにようよう哀れな亭主も子供達も生きていられるのだという自信に、少なからず誇りを感じていた彼女は、何の価値も全然認め得ない彼が、一存で礼を突返して来たということ――無能力者の僭越――によって、非常に自分の誇りを傷けられたと感じた。
 ちょうど、大変自尊心の強い先生がどうかしたはずみで目にもとめていなかった生徒に、遣りこめられたときのような、何とも云いようのない混雑した心持を、形式こそ違え、お石も感じていたのである。
 そして、一層その金包みに愛着を感じた。
 指一本触らずに置いて来た金包みのうちに、彼女は自分等の永久的な慰楽が包蔵されていたような心持がして、禰宜様宮田はまるで聖者の仮面を被った悪魔、生活を破壊させ、堕落させようと努めてばかりいる悪魔のように憎んだのである。
 もちろん、お石の心の中では、こういうふうな言葉も順序もついてはいない。
 掻きまわされた溝のように、ムラムラ、ムラムラと何も彼も一どきにごた混ぜになって互に互を穢し合いながら湧き出して来る。
 そうするともう真暗になってしまう彼女は、訳も分らず叱りつけ、怒鳴りつけ、擲《なぐ》り散らす。
 けれども、すぐ旋風が過ぎてしまうと、後には子供達に顔を見られるのも堪らないような気恥かしさが残るので、彼女は照れ隠しにわざとどこかへ喋りに飛び出してしまうのである。
 妙にぎごちない、皆が各自の底意を見抜きながら、僅かの自尊心で折れて出る者は独りもないような生活が彼女にとってもはやうんざりして来たとき、思いがけずに海老屋の番頭が、欲しいものを要求してくれと云って来たときには、もう何と云っていいかまるで生き返ったような心持がした。
 自分さえ打ちとければ、それに対して片意地な心を持つ者は誰もいないなどと思わないお石は、小さい娘達まで心のひねくれた大人扱いにして、自分独りですねていたのである。
 辞退はされるが、どうか何なり欲しいものを云ってくれという使の趣を話されたとき、顔が熱くなるほど嬉しかったお石は、相手をこう出させるために、とっさんはあのとき断って来たに違いないと思った。
 若しそうだとすれば、俺ら何のために怒ったろう? ひそかに心のうちではにかみ笑いをしながら、彼女は今度もまた謝絶している禰宜様宮田を珍らしく穏やかな眼差しで眺めていた。
 彼は相変らずのろい、丁寧な言葉で断わると、うるさいものと諦めていた番頭は思いがけず、じきに納得して帰ってくれた。
 禰宜様宮田は、すぐ帰ってもらったことに満足し、お石は何はともあれ来てくれたことに満足して、家中には久しぶりで平和が戻って来たのであった。
 けれども、使は三日にあげずよこされる。そして、ことわられては素直に帰って行く。
「またおきまり通りでございます……」
 番頭がそう云って隠居の部屋へ挨拶に行く毎に、海老屋の年寄りは会心の笑《えみ》を洩していたのである。
 まったくおきまり通りになって来るわえ……。
 年寄りの心には、ちょうど藪かげに隠れて、落しにかかる獣を待っている通りな愉快さが一杯になっているのである。
 何にも知らない獲物は、平気で頓間《とんま》な顔付きをしながら、ノソノソ、ノソノソとだんだん落しに近づいて来る……。
 そのとき猟人の胸に満ちる、緊張した原始的な嬉しさが、そのまま今年寄りに活気を与えて、何だか絶えずそわそわしている彼女は、きっとこういうときほか出ないものになっている無駄口をきいたり、下らないことに大笑いをして、
「ヘッ、馬鹿野郎が!」
などとつぶやく。
 その馬鹿野郎というのは、決して憎しみや、侮蔑から作男共に向って云われたのではない。
 これからそろそろと御意なりに落しにかかろうとする獲物に対する非常に粗野な残酷な愛情に似た一種の感情の発露なのである。
 年寄りは、着々成功しかかる自分の計画の巧さに、我ながら勢《きおい》立ってますます元気よく朝から晩まで、馳けずりまわって働いていたのである。
 三度まで無駄足を踏ませられても、怒る様子もないばかりか、使をよこすのを止めようともしない……。
 さすがの禰宜様宮田も、またさすがのお石も、少し妙な気がした。
 いったいまあどうしたことじゃい!
 漠然とした疑惑が起らないではなかったが、禰宜様宮田は、そういう心持を自分で自分の心に恥じていた。
 どこに、自分等の大切な家族の一員の命を救ってくれたものに対して、悪い返報をするもの、また出来るものがいるだろう。
 浅間しい疑を抱く自分を彼はひそかに赤面しながら、どこまでも、親切ずくのこととして信じようとしていたのである。
 けれども、四度目に来たとき、海老屋の番頭はもう断わられて帰るような、そんななまやさしいものではなくなった。
 彼はほんとの用向――年寄りの計画の第一部――を持って現われたのである。
 今までとは打って変って高圧的な口調で、番頭は先ず隠居が大変立腹していること。こんなに手を換え、品をかえて何か遣ろうとするのにきかないのは、何か思惑があるのじゃあないか、一旦自分で突落した若旦那をまた自分で助けて来でもして、こちらで上げようとしているものより何かほかのものに望みを置いているのじゃあないかと思っていなさると、云った。
 それを聞いて、真先に怒鳴り出したのはお石である。
 憤りでブルブルと声を震わせ、吃《ども》りながら、番頭の前へずり出して噛みつくように叫んだ。
「云う事うにもことう欠《け》えて、まあ何《あ》んたらこ
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