若者を眺めてから、愛《いつ》くしみに満ち充ちた心を持って、裏口から誰も気の付かないうちに、さっさと帰って行ってしまった。

        二

 今まで、何かにつけて禰宜様宮田は自分の心のうちに年中|飢《ひも》じがって、ピイピイ泣いては馳けずりまわっている瘠せっぽちな宿無し犬がいるような気持になりなりした。平常は半分まぎれて気がつかないでいても、何か少し辛いことや面白くないことが起って来ると、どこかの隅に寝ていた瘠せ犬がムックリと起き上る。そして、微かな足音を立てながら、悲しげに泣きながら、彼の体中を歩きまわる。
 ソクソクソクソクという足元から、悲しい寂しい心持が湧き出して、禰宜様宮田の心も体も押し包んでしまうのである。
 そして、ときには瘠せ犬が自分の心の持主なのか、または自分が、その瘠せ犬の主なのか、よく分らなくなってしまうほど、追い払っても、追い払っても、また戻って来るみじめな、瞬く間に自分の心を耄碌《もうろく》させてしまいそうな辛さが、彼の心を苦しめたのである。
 けれども、有難いことには、昨日のあの瞬間から――彼が泣き伏しながら拝みたい心持になったときから――彼の魂は真当な休みどころを見つけた。
 そこだけは、いつも明るく暖かく輝いている。
 辛かったら来るがいい……
 泣きたくなったら、泣きに来い……
 彼は、今まで俺はもうもう不仕合わせなけだものだと思っていた自分の心を――あの瘠せ犬があんなにも引掻きまわす自分の心を――ちゃあんと、どなたかが見ていらっしゃって、こういう休みどころを下すったのじゃああるまいかということを大変思った。
 そのどなたかは、世の中じゅうの真当なことの持ち主であらっしゃる……
 禰宜様宮田は、広場へ筵《むしろ》を拡げて、※[#「木+(綏−糸)」、第3水準1−85−68、212−19]《たら》の根を乾かしながら、大変仕合わせな、へりくだった心持で考えていたのである。
 南向きの広場中には、日がカアッとさして、桔槹《はねつるべ》の影は彼方の納屋の荒壁を斜に区切って消えている。
 二十日ほど前に誕生した雛共が、一かたまりの茶黄色のフワフワになって、母親の足元にこびりつきながら、透き通るような声で、
 チョチョチョチョチョ……
 と絶間なく囀《さえず》るのを、親鳥の
 クヮ……クウクウ……クヮ……
という愛情に満ちた鼻声が一緒になって、晴れた空に響いて行く。
 娘のまき[#「まき」に傍点]と、さだ[#「さだ」に傍点]に守りをされながら、六《ろく》の小さい裸足の足音は湿りけのある地面に吸いつくような調子で、今来て肩につかまったかと思うと、もうあっちへヨチヨチとかけて行く。
「ア、六。
 そげえなとこさえぐでねえぞ。
 血もんもが出来てああいていてになんぞ、な。
 こっちゃて、ほうら見、とっとがまんま食ってんぞ、おうめえうめえてな……」
 麦粉菓子の薄いような香いが、乾いて行く※[#「木+(綏−糸)」、第3水準1−85−68、213−15]の根から静かにあたりに漂っていた。
 すると、昼過ぎになって、突然海老屋の番頭だという男が訪ねて来た。
 昨日のお礼を云いたいから、店まで一緒に来てくれと云うのである。
 いろいろ言葉に綾をつけながら、わざと早口に、ぞんざいな物云いをする番頭は、彼の妙にピカピカする黒足袋を珍らしがって※[#「奚+隹」、読みは「にわとり」、第3水準1−93−66、213−19]共が首を延すたんびに、さも気味悪そうに下駄をバタバタやっては追い立てる。
 ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、214−1]がはあおっかねえとは……
 心の内でびっくりしながら、まき[#「まき」に傍点]やさだ[#「さだ」に傍点]は番頭が厭な顔をするのも平気で、真正面に突っ立ったまま、不遠慮にその顎のとがった顔を見守っている。
 禰宜様宮田は行きたくなかった。
 そんな立派な家へ、何も知らない自分が出かけて行くのは気も引けたし、何かやるやると云われるのにも当惑した。
「俺らほんにはあお使えいただいただけで、結構でござりやす……
 何《なん》もそげえに……
 そんに決して俺らの力ばっかじゃあござりましねえから……」
 彼は下さる物は、自分のような貧乏人にとって不用《いら》ないはずはないことは知っている。
 けれども……何だか品物などでお礼をされるには及ばないほどの満足が彼の心にはあったのである。
 そして物なんか貰ってさも俺の手柄だぞという顔は、とうてい出来ない何かが彼の頭を去らなかった。
 番頭に蹴飛ばされそうになる雛どもを、ソーッと彼方へやりながら、禰宜様は幾度も幾度も辞退した。
 が、番頭はきかない。
 とうとう喋りまかされた禰宜様宮田は、海老屋まで出かけることになった。
 店の繁盛なことや、暮しのいいことなどを、しまいに唇の角から唾を飛ばせながら喋る番頭の傍について、在《ざい》の者のしきたり通り太い毛繻子の洋傘をかついだ禰宜様は、小股にポクポクとついて行ったのである。
 海老屋では、家事を万事とりしきってしているという年寄り――五十四五になっている先代の未亡人――が会った。
 金庫だの箪笥だのを、ズラリと嵌《は》め込みにした壁際に、帳面だの算盤だのをたくさん積み重ねた大机を引きつけて、男のような、といっても普通の男よりもっとバサバサした顔や声を持ったおばあさんが、ムンズという形容がおかしいほど適した形をして座っているのを見ると、あれでもおばあさんだそうなという感じが、一層禰宜様宮田の心をまごつかせた。
「はあ、お前さんが宮田とお云いか……」
 丁寧に頭を下げた彼の挨拶に答えた、彼女の最初の、太いかすれた声を聞いた瞬間から、もうすっかり彼の心は、受身になってしまって、いつもの「俺」の逃げて行き方が、もっと早く、もっとひどく行われたのである。年寄りはあんな大男の息子を助けた男というだけで、もっとずーッと体も心もがっしりした元気な男を期待していたところへ現われた彼は、余りすべてにおいて思いがけない。
 おばあさんは、何だか滑稽なような、お礼を云うのも馬鹿らしいような気持になってしまった。
 そして、臆している彼の前にこの上ない優越感を抱きながら、お礼を云うのか命令しているのか、さほどの区別をつけられないような口調で息子の救われた感謝の意を述べた。
 私のようなものが、お前にお礼を云うのさえ、ほんとなら有難すぎることなのだという口吻《こうふん》が、ありありと言葉の端々に現われているけれども、禰宜様宮田はちっとも不当な態度だと思わなかったのみならず、彼女がほのめかす通り、お礼などを云われるのはもったいないことだと思っていたのである。
 お前さまは海老屋の御隠居であらっしゃる。そんにはあ俺あこげえな百姓づれだ。そこにもう絶対的な或るもの――禰宜様宮田にとってはこの上ない畏怖となって感じられた、両者の位置の懸隔――を認めることに、馴されきっているのである。
 何を云われても、彼はただハイ、ハイとお辞儀ばかりをした。
 一通り云うだけのことを云うと、年寄りはもったいぶった様子で、仰々しい金包みを出した。
 麗々と水引までかかっている包みを見ながら、禰宜様宮田は、途方に暮れたような心持になりながら、ぎごちない言葉で辞退した。
「ほんにはあお有難うござりやすけんど……
 俺ら心にすみましねえから……」
 けれども年寄りの方では、喉から手が出そうに欲しくても、一度は「やってみる」遠慮だと思ったので、唇の先だけで、
「まあ御遠慮は無用だよ」
と云いながら、煙草を吸い込む度に目を細くしては彼の様子を見ていた。
 が、彼はどうしても納めようとしない。
 貰わない訳を彼は説明したかったのだ。けれども、何より肝腎の、
「俺の心にすまんねえもの」
を、云いとくに入用《いる》だけの言葉数さえ知らない上に、どういう訳だからどうなって俺の心に済まないのかと、いうことは、彼自身にさえよくは分っていない。
 ただ心に済まない気がする。後にも先にもそれだけなのである。けれども、その漠然とした「気持」が、どんなにしてもごまかせもせず、許せもしない強さで彼の心を支配しているのである。
 永い間ジーッと考えれば、云われないこともなかろうが、何にしろ、今こうやって年寄りが面と向って口元を見守っているときなどに、どうして平気でそんなことが考えていられよう。
 彼のいい魂は、すっかり恐縮してがんじょうな胸の奥にひそまり返っていたのである。
 幾度云っても聞かないのを見た年寄りは、内心に意外な感じと、先ず儲けものをしたという安心とを一どきに感じながら、たった一円の包みを眺めた。
 そして、何となしホッとしながら、けれどもどこまでもせっかく出したものを突返された者の不快を装いつつ、不機嫌そうに傍の手文庫を引きよせて、包みを入れると、ピーンと錠を下してしまった。
 隅々の糸がほつれている色も分らない古|巾着《きんちゃく》を内懐から出して、鍵を入れると、
「一銭や二銭のお金じゃあなし、遣ろうと云えば、一生恩に被る人が、ウザウザいうほどあります。ただ湧いて来るお金じゃあなしね」
とつぶやきながら、うなだれている禰宜様宮田の胡麻塩の頭を眺めて、彼女は途方もない音を出して、吐月峯《はいふき》をたたいた。

        三

 海老屋の年寄りは、翌朝もいつもの通り広い果樹園へ出かけて行った。
 笠を被り、泥まびれでガワガワになったもんぺを穿いた彼女が、草鞋《わらじ》がけでたくさんな男達を指揮し出すのを見ると、近所の者は皆、
「あれまあ御覧よ、
 また海老屋の鬼婆さんが始まったよ」
と、あきれ返ったような調子で云う。
 自分が鬼婆鬼婆といわれているということも、その訳も彼女はちゃんと知っている。
 けれどもちっとも気にならない。それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。
 どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。
 自分のことを眼の敵《かたき》にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村にしたところで、腹の中は見え透いている。今までこそ、呉服は津村に限るとまで云われて、町随一の老舗《しにせ》で通って来たものが、このごろではうち[#「うち」に傍点]にすっかり蹴落されて、目に見えて落ちて行く。その当人になってみれば、嘘にもお世辞にもよくは思えないのも無理はない。それがこわくて何ができよう。
 先だって三綱橋のお祝いのときにも、佐渡《さわたり》の御隠居があんなにわいわい云ったって、やはり寄附金が少なかったから、見たことか、ああやって私よりは下座へ据えられて、夜のお振舞いにだって呼ばれはしない。
 町会議員を息子に持っていると威張ったところで、いざというときにはどうせ、私の敵じゃあないわい。
 今の世じゃあ、金さえあればどんな無理も通せるというもの、現に佐渡り[#「佐渡り」はママ]の議員だって、買ったも同様の札で当ったのだというじゃあないか。
 ものは方便、金がもの云う時世に生れて、変におかたいことを云うのは、馬鹿の骨頂《こっちょう》だ。
 何とか彼とか理窟をつけて、溜めたくないようなふりをしている者のお仲間入りをしていられるものか。何と云われたってかまわずドシドシ溜れば、それでいいのだ。ああそれでいいのだとも……。
 どんな僅かの機会でも、決して見逃すことのない彼女は、幾分かの利益が得られそうだとなると、どんな手段でも策略でも遠慮会釈なくめぐらして、どうにでもしまいには勝つ。
 まるで思いがけないような難題を考えたり、云いがかりを作ることは、彼女の得意とするところであり、従って何よりの武器であった。それ等の思いつきを、彼女は日頃信心する妙法様の御霊験《おしめし》と云っていたのである。
 果樹園には、この土地で育ち得るすべての種類の果樹が栽培されていた。
 そして、収穫時が来ると、お初穂《はつ》をどれも一箇《ひとつ》ずつ、妙法様と御先祖にお供えした後は、皆売り出すのだから、今
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