れてしまう。
 彼はますます深くうなだれるほかなかった。
「例え嘘にしろ何にしろ、あの御隠居が、そうと思いこんだといったら、決してただじゃあすまさない方だ。ことによれば訴えなさるまいもんでもない。
 疑いをかけられるくらい、人間恐ろしいものはないからね。
 すっかり身の証《あかし》も立てて、御隠居の考えも通させた方が、どう考えても得策だね」
 訴え! 訴え!![#「!!」は横1文字、1−8−75] 哀れな夫婦の耳元で、訴えの一言が雷のように鳴り響いた。
 無智な農民の心を支配している法律に関するこの上ない恐怖が、彼等の頭を掻き乱したのである。
 道理の有無に関らず、彼等を一竦みに縮み上らせるのは、訴えてやるぞという言葉である。
 まるで証拠のないことを、若し若旦那が、ええ誰かが後から突落したのを知っていますとでも云えば、いったい俺等は何で、そうでないという明しを立てるのだ。
 調べられるとき、酷《ひど》い目にでも合わされて、苦しまぎれに夢中でそうだとでも云ったら、どうすればいいのか。
 訴え、恐ろしい訴え――それも自分の方には何の強みもなさそうに思われた訴え――が、すぐ目前に迫っていることを思った禰宜様宮田は、もう何をどう考えることも出来ないほどの混乱を感じた。
 体中で震えながら、冷汗を掻いている彼を見ながら、番頭は口の先でまだヘラヘラと喋り続けた。
「考えて御覧な。
 片方は何といっても海老屋の御隠居、片方は失礼ながらお前さん達。
 そうじゃあない違いますと云ったところで、世間様じゃあどっちがほんとだと思うんだね。
 誰が聞いたって、御隠居を疑ぐる訳にゃあいかない。政府のお役人様だって、お前さんと、御隠居じゃあちいっとの手心あ違おうともいうもんだ。
 だから、下らない意地は捨てる方が得、ね、ウンと承知すりゃあ、万事万端めでたしめでたしで納まろうってもんだ。
 え! 承知しなさい、その方が得だよ」
 激しい強迫観念に襲われて、あらゆる理性を失ってしまった禰宜様宮田は番頭の言葉を聞き分けることさえ出来ないようになった。
 まして、それ等のうちに含まれている弱点などを考えることなどは出来得ようもない。
 彼はただ恐ろしい。身にかかる疑いが恐ろしい。
 思想の断片が、気違いのように頭のうちじゅう走《か》けまわる……。
 大きな眼にうっすら涙を浮べて、口を開き暫く呆然としていた彼は、やがてちょっと目を瞑《つぶ》るとほとんど聞きとれないほどのつぶやきで、
「……俺ら……俺らすんだら……」
と、云うや否や押しかぶせるように、
「何? 承知する?
 ああそれでようよう埒が明くというもんだ、さあ、そんならこれにちょっと印を貰いましょうか」
 番頭は、包みのうちから何か印刷したものを出して、禰宜様宮田の前に置いた。
 取り上げては見たが、どうしても読めない。
 字の画が散り散りばらばらになって意味をなさないのを、番頭に助けられながらそれが小作証書であるのを知ったときには、もう一層の絶望が彼の心を打った。
 が、もう何ということもない。
 二度も三度も間違えながら筆の先をつかえさせて名前を書き入れると、彼は黙々として印を押した。

        四

 その田地――禰宜様宮田が実に感謝すべき御褒美として、海老屋から押しつけられた――は、小高い丘と丘との間に狭苦しく挾みこまれて、日当りの悪い全くの荒地というほか、どこにも富饒な稲の床となり得るらしい形勢さえも認められないほどのところであった。
 破産までさせられて、自棄《やけ》になった彼の前の小作人が半ば復讐的に荒して行ったのだともいう、石っころだらけの、どこからどう水を引いたらいいのかも分らないように、孤立している田地を見たとき、禰宜様宮田は思わず溜息を洩した。
 いったいどこから手を付ければ、こんなにも瘠せきった原っぱのような田地を、少くとも人並みのものに出来るのだろう……。
 けれども、もうこうなっては否でも応でも収穫を得なければ大変になる。
 全く強制的に彼は朝起きるとから日が落ちるまで、土龍《もぐら》のように働かなければならなかったのである。
 禰宜様宮田は、ほんとに体の骨が曲ってしまうほど耕しもし、血の出るような工面をして、たくさんの肥料もかけてみた。寸刻の緩みもなく、この上ない努力をしつづける彼の心に対しても、よくあるべきはずの結果は、時はずれの長雨でめちゃめちゃにされた。
 稲の大半は青立ちになってしまったのである。
 どうしても負けてもらわなければ仕方がなくなった禰宜様宮田は、年貢納めの数日前、全く冷汗をかきながら海老屋へ出かけて行く決心をした。
 小作をして、おきまり通りちゃんちゃん納められるものが、十人の中で幾人いる、何も恥かしいことじゃあない、平気でごぜ、平気でごぜ。尋常
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