耕地の端れの柏の古木の蔭に横たわりながら、彼は様々な思いに耽ったのである。
 透き通りそうに澄みわたって、まるで精巧なギヤマン細工の天蓋のように一面キラキラと輝いている、広い広い空。
 短かい陽炎《かげろう》がチロチロともえる香りのいい地面。
 禰宜様宮田は、ジイッと瞳をせばめて、大きい果しない天地を想う。
 そして、想えば想うほど、眺めれば眺めるほど、彼はあの碧い空の奥、この勢のいい地面の底に何か在りそうでたまらない心持になって来るのである。
 ほんとに、きっと何かが在りそうな気がする。
 それならいったい何が在るのか?
 彼は知らないし、また解りもしない。
 ただ、底抜けでない、筒抜けでは決してないという心強さが、じわじわと彼の心の核にまで滲みこみ、悠久な愛情が滾々《こんこん》と湧き出して、一杯になっていた苦しみを静かに押し流しながら、慎み深い魂全体に満ち溢れるのである。
「何事もはあ真当《まっとう》なこった……」
 天地が広いのが真当なように、何も知らない意くじない自分が小さいのは、辛いことがあるのは決してまちがいではない。
「どなたか」は各自の心に各自違った考えをお授けなさる。それがよし自分と同じでないとしたところで、どうして怨んでなるものか。
 すべてのもののうちに潜んでいる真当、掘り下げて、掘り下げて行った底には、きっと光っているに違いない真当に、強い憧れを感じて、禰宜様宮田のあの子供らしい、上品な眼は涙ぐんだのである。
 貧乏な暮しには、いい魂より金の方が大切だ。
 お石は、唇を噛んでジリジリしながら、どう考えても馬鹿《こけ》の阿呆《あほう》に違いない自分の亭主を呪った。
 家中の責任を皆背負って立っている自分、この自分がいるばかりにようよう哀れな亭主も子供達も生きていられるのだという自信に、少なからず誇りを感じていた彼女は、何の価値も全然認め得ない彼が、一存で礼を突返して来たということ――無能力者の僭越――によって、非常に自分の誇りを傷けられたと感じた。
 ちょうど、大変自尊心の強い先生がどうかしたはずみで目にもとめていなかった生徒に、遣りこめられたときのような、何とも云いようのない混雑した心持を、形式こそ違え、お石も感じていたのである。
 そして、一層その金包みに愛着を感じた。
 指一本触らずに置いて来た金包みのうちに、彼女は自分等の永久的な慰楽が包蔵されていたような心持がして、禰宜様宮田はまるで聖者の仮面を被った悪魔、生活を破壊させ、堕落させようと努めてばかりいる悪魔のように憎んだのである。
 もちろん、お石の心の中では、こういうふうな言葉も順序もついてはいない。
 掻きまわされた溝のように、ムラムラ、ムラムラと何も彼も一どきにごた混ぜになって互に互を穢し合いながら湧き出して来る。
 そうするともう真暗になってしまう彼女は、訳も分らず叱りつけ、怒鳴りつけ、擲《なぐ》り散らす。
 けれども、すぐ旋風が過ぎてしまうと、後には子供達に顔を見られるのも堪らないような気恥かしさが残るので、彼女は照れ隠しにわざとどこかへ喋りに飛び出してしまうのである。
 妙にぎごちない、皆が各自の底意を見抜きながら、僅かの自尊心で折れて出る者は独りもないような生活が彼女にとってもはやうんざりして来たとき、思いがけずに海老屋の番頭が、欲しいものを要求してくれと云って来たときには、もう何と云っていいかまるで生き返ったような心持がした。
 自分さえ打ちとければ、それに対して片意地な心を持つ者は誰もいないなどと思わないお石は、小さい娘達まで心のひねくれた大人扱いにして、自分独りですねていたのである。
 辞退はされるが、どうか何なり欲しいものを云ってくれという使の趣を話されたとき、顔が熱くなるほど嬉しかったお石は、相手をこう出させるために、とっさんはあのとき断って来たに違いないと思った。
 若しそうだとすれば、俺ら何のために怒ったろう? ひそかに心のうちではにかみ笑いをしながら、彼女は今度もまた謝絶している禰宜様宮田を珍らしく穏やかな眼差しで眺めていた。
 彼は相変らずのろい、丁寧な言葉で断わると、うるさいものと諦めていた番頭は思いがけず、じきに納得して帰ってくれた。
 禰宜様宮田は、すぐ帰ってもらったことに満足し、お石は何はともあれ来てくれたことに満足して、家中には久しぶりで平和が戻って来たのであった。
 けれども、使は三日にあげずよこされる。そして、ことわられては素直に帰って行く。
「またおきまり通りでございます……」
 番頭がそう云って隠居の部屋へ挨拶に行く毎に、海老屋の年寄りは会心の笑《えみ》を洩していたのである。
 まったくおきまり通りになって来るわえ……。
 年寄りの心には、ちょうど藪かげに隠れて、落しにかかる獣を待っている通りな愉
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