ような心持になりながら、ぎごちない言葉で辞退した。
「ほんにはあお有難うござりやすけんど……
 俺ら心にすみましねえから……」
 けれども年寄りの方では、喉から手が出そうに欲しくても、一度は「やってみる」遠慮だと思ったので、唇の先だけで、
「まあ御遠慮は無用だよ」
と云いながら、煙草を吸い込む度に目を細くしては彼の様子を見ていた。
 が、彼はどうしても納めようとしない。
 貰わない訳を彼は説明したかったのだ。けれども、何より肝腎の、
「俺の心にすまんねえもの」
を、云いとくに入用《いる》だけの言葉数さえ知らない上に、どういう訳だからどうなって俺の心に済まないのかと、いうことは、彼自身にさえよくは分っていない。
 ただ心に済まない気がする。後にも先にもそれだけなのである。けれども、その漠然とした「気持」が、どんなにしてもごまかせもせず、許せもしない強さで彼の心を支配しているのである。
 永い間ジーッと考えれば、云われないこともなかろうが、何にしろ、今こうやって年寄りが面と向って口元を見守っているときなどに、どうして平気でそんなことが考えていられよう。
 彼のいい魂は、すっかり恐縮してがんじょうな胸の奥にひそまり返っていたのである。
 幾度云っても聞かないのを見た年寄りは、内心に意外な感じと、先ず儲けものをしたという安心とを一どきに感じながら、たった一円の包みを眺めた。
 そして、何となしホッとしながら、けれどもどこまでもせっかく出したものを突返された者の不快を装いつつ、不機嫌そうに傍の手文庫を引きよせて、包みを入れると、ピーンと錠を下してしまった。
 隅々の糸がほつれている色も分らない古|巾着《きんちゃく》を内懐から出して、鍵を入れると、
「一銭や二銭のお金じゃあなし、遣ろうと云えば、一生恩に被る人が、ウザウザいうほどあります。ただ湧いて来るお金じゃあなしね」
とつぶやきながら、うなだれている禰宜様宮田の胡麻塩の頭を眺めて、彼女は途方もない音を出して、吐月峯《はいふき》をたたいた。

        三

 海老屋の年寄りは、翌朝もいつもの通り広い果樹園へ出かけて行った。
 笠を被り、泥まびれでガワガワになったもんぺを穿いた彼女が、草鞋《わらじ》がけでたくさんな男達を指揮し出すのを見ると、近所の者は皆、
「あれまあ御覧よ、
 また海老屋の鬼婆さんが始まったよ」
と、あきれ返ったような調子で云う。
 自分が鬼婆鬼婆といわれているということも、その訳も彼女はちゃんと知っている。
 けれどもちっとも気にならない。それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。
 どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。
 自分のことを眼の敵《かたき》にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村にしたところで、腹の中は見え透いている。今までこそ、呉服は津村に限るとまで云われて、町随一の老舗《しにせ》で通って来たものが、このごろではうち[#「うち」に傍点]にすっかり蹴落されて、目に見えて落ちて行く。その当人になってみれば、嘘にもお世辞にもよくは思えないのも無理はない。それがこわくて何ができよう。
 先だって三綱橋のお祝いのときにも、佐渡《さわたり》の御隠居があんなにわいわい云ったって、やはり寄附金が少なかったから、見たことか、ああやって私よりは下座へ据えられて、夜のお振舞いにだって呼ばれはしない。
 町会議員を息子に持っていると威張ったところで、いざというときにはどうせ、私の敵じゃあないわい。
 今の世じゃあ、金さえあればどんな無理も通せるというもの、現に佐渡り[#「佐渡り」はママ]の議員だって、買ったも同様の札で当ったのだというじゃあないか。
 ものは方便、金がもの云う時世に生れて、変におかたいことを云うのは、馬鹿の骨頂《こっちょう》だ。
 何とか彼とか理窟をつけて、溜めたくないようなふりをしている者のお仲間入りをしていられるものか。何と云われたってかまわずドシドシ溜れば、それでいいのだ。ああそれでいいのだとも……。
 どんな僅かの機会でも、決して見逃すことのない彼女は、幾分かの利益が得られそうだとなると、どんな手段でも策略でも遠慮会釈なくめぐらして、どうにでもしまいには勝つ。
 まるで思いがけないような難題を考えたり、云いがかりを作ることは、彼女の得意とするところであり、従って何よりの武器であった。それ等の思いつきを、彼女は日頃信心する妙法様の御霊験《おしめし》と云っていたのである。
 果樹園には、この土地で育ち得るすべての種類の果樹が栽培されていた。
 そして、収穫時が来ると、お初穂《はつ》をどれも一箇《ひとつ》ずつ、妙法様と御先祖にお供えした後は、皆売り出すのだから、今
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