美しき月夜
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)林檎《りんご》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三四|哩《マイル》隔った

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)汽車?![#「?!」は横1文字、1−8−77]
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 静かな晩である。
 空気は柔かく湿って、熟しかけた林檎《りんご》からは甘酸い、酸性のかおりが快く、重く眠たい夜気の中に放散し、薄茶色の煙のような玉蜀黍《とうもろこし》の穂が澄みわたった宙に、ひっそりと影を泛べている。到るところに陰翳《いんえい》の錯綜があった。夏と秋の混り合った穏やかなどことなく淋しい景物が、今パット咲いた銀色の大花輪のような月光の下で、微かに震えながら擁《だ》き合っている。どこにも動くものがなかった。どこにもものを云う声が聴えなかった。その沈黙が一層聞えない囁きの優しさと、見えない魂の団欒《だんらん》を想わせるような夜のうちを、彼等は確かりと腕を組合いながら、幸福に家路に向っていたのである。
 姪の結婚披露に招待されて、久振りで華やかなる雰囲気のうちに心から浸った彼等は、いつかあらゆる日常生活の煩しさから開放されていた。可愛くてうるさい子供達も、老母も、地平線の彼方より遠い彼方に姿を消して、亢奮に連れて甦った若さが三年前の恍惚《こうこつ》に彼等を引戻して、希望に満ち、歓喜と純潔な羞恥に赤らんだ二つの笑顔は、彼等に甘美な回想を与える。単調になりがちな愛の経過に、さっと差した輝きのような新鮮さが、彼等のうちに夢をかきたてた。彼等がまだ結婚しなかった時分に、よく老人達の傍を逃げるように抜け出しては、感傷的な夜景の中を彷徨《ほうこう》したその時分のような忘我と魂の鼓動が、まるで月光のように二つの心を耀かせているのである。
 W・タンナーは米国の中部に在る大都会から、三四|哩《マイル》隔った小邑の会社員であった。毎朝八時になると、彼は木造の住宅から四五丁離れた、或る電気会社の事務所に出かけて行く。そして昼に一時間休暇を貰って、家へ昼食をしに戻って来るときを除いては、朝から夕方まで、古ぼけたオークの事務机《デスク》の前に背を屈めて、無感興な数字の整理に忙殺されているのである。
 まだ三十になるかならないの彼は、ようよう家族を支えて行くだけの俸給ほか貰っていなかった。従って、二人の子供達と老母とを抱いて、彼等の生活は、どこの隅にも余裕というべきものを見出すことはできない。白襯衣《ホワイトシャーツ》一枚になったWが、西日の差しこむ温室のような事務室で、よき良人らしく、忠実な父親らしく額に汗している間に、妻のマーガレットは、また彼に劣らぬ真剣さで何くれとなく家事のために奔走する。彼等にとって、贅沢《ぜいたく》な流行品の存在が、何ら関心の材料にもならなかった如くに、あらゆる空想というものが、生活から駆逐されていた。結局実現も出来ない空想に心を奪われてボカンとして過す五分が、何を産むだろう? 彼等に望外の野心もなかった。激しい口論を起すべき衝突もまたない。単調な田舎の圏境が、いつか人の心に与える不思議な催眠で、光沢のない水色のような生活が、彼等の結婚後三年の月日を満たして今日に至ったのである。
 Wが、安い月給取りであるということ、彼の妻は、また彼にふさわしいよき主婦であるということは、そこに何の華やかさもない代りに、彼には平和な信頼を与えた。彼は毎月定まった金額を彼女の掌《て》に渡す。何の不安も、焦燥も感ぜずにその金は彼女の配慮で日常の生活を満たして行く。
 天気の晴々と輝きわたった夏などに、昼飯に戻って来た彼は、よく子供達に取繞《とりま》かれながら裏の草原で洗濯物を乾しているマーガレットを見出すことがあった。
 金色の日光がキラキラと金粉を撒くように降り注ぐ明るみの中で、嬉戯《きぎ》する子供等と、陽気な高声で喋りながら、白く肥った腕を素早く動かして、張りわたした綱に濡れた布を吊る彼女の姿は、どんなに彼の心を悦ばせたことだろう。一足毎に大きなかごを傍へ傍へと引寄せながら、上下する体の運動につれて、愉快な小唄を口誦む彼女。跼《しゃが》む機勢《はずみ》に落ちかかる後れ毛を、さもうるさそうに手の甲で掻き上げながら、ちょっと頭をあげて大きく息をする彼女。そこには若い母親の豊饒な愛が、咽《む》せるほど芳しく漂っている。見馴れた光景でありながら、その家庭的な情景に逢うと、彼は湧き上る感謝を圧えることができなかった。よき家である。よき妻や子等である。わざと木影に隠れて、我れともなく恍惚とした父親を真先に見つけた子供達が、弾む小毬《こまり》のように頸や胸元に跳びつく頃は、微風に連れて雲のように膨れたり萎んだりする白布を背景にして、眩ゆそうに額際に腕を挙げたマーガレットが、血色のよい頬に渦巻くような笑を湛えながら、“Halloo dear”と野放しの声を投げる。
 質素な木綿着物に包まれた彼女のほっそりとした体の周囲からは、やや田舎めいた、清潔な快い糊のにおいがプント立ちのぼるだろう、濡れて光る双手、小さい汗のために水蜜桃のような顎――あらゆるものが彼女の母性《マザーフット》を囲んで耀くように見えた。壊れかけた玩具も、磨かれた家具も、すべてが彼女の影を受けて始めて、活々として見えるようにさえ思われるのである。
 そういうとき若い良人のWは、涙が出るほどの悦びを感じずにはいられなかった。しかし、その悦びは、決して今のようなものではない。何と云ったら好いだろう。ちょうど、仕合わせな、可愛がられる子供が、髪の毛を透して母親の慈愛に満ちた寵撫《パット》を受けるときのような心持である。その膝に靠《もた》れてそのまま眠ってしまいたいような信頼である。「我等の母」に対する尊敬ともいい得る感激なのである。
 けれども!
 Wは、半ば駭《おどろ》き、半ば歓喜の含羞《はにか》みで上気したような瞳を瞬きながら、自分の腕に倚って歩を運ぶマーガレットを眺めた。
 そこには、いつもの見馴れたマージーの、主婦《ハウスワイフ》らしい地味な、取繕わないふうは、その影さえも止めていなかった。何か非常によきもの、美しきもの、それ等は、彼がかつて一度も彼女のうちに見出したことがないようにさえ思われるものが、今薄いラベンダーの着物に包まれて、半ば眼を瞑《つむ》るように閉じながら、足音も立てずに引添うて来るマーガレットの周囲に燦然《さんぜん》と耀いているのである。
 日常生活の単調な反復が、いつか積らせた鈍重な塵の底に埋もれていた美が、今、その遮蔽物を掻きのけて光り始めたのであろうか。
 それとも、久振りの甦った亢奮が、彼女に新しい魅力を加えたのであろうか、それはどっちだかW自身にも判断が付かなかった。
 けれども、歩むにつれて、フワフワと揺れる鍔広《つばひろ》の帽子が、すべすべな頬を斜に掠めて優しい影を投げ、捲毛から溢れた小さい耳朶から、芳しい頸、胸と何の滞りもなく流れる円滑な線が、レースと、飾帯《サッシ》につけた花束の間に幻の如く消えている、その繊細な、柔かく、軽い、夢幻的な美は、身を引緊めるような謎を持っている。Wは、恰も女王に仕える騎士のような眼差しで、霧のような日光を浴びたマーガレットの横顔を偸見《ぬすみみ》た。この美くしさ! それは全く、情慾を超えた高貴であった。異性が、互に思いも懸けなかった崇高な美を対手のうちに、さながら霊感の如く発見する、稀有な瞬間の一つであった。匍匐《ほふく》する現実から截《き》り放たれて、彼は飛翔する光りもののうちに、永遠の女性の再誕を感じたのである。
 しかし、この霊的な、この世の者でないようにさえ見えるマージーの美に対する讃嘆は、殆ど無意識に彼の心の底に横っている、何ものにも換え難い安らかさ、確信ともいうべきものと相呼応して、一層彼を有頂天にしていた。それは、この尊むべく、愛すべき女性は、一生を徹して、自分に保証された者であるという落付きである。この宝物を、彼の掌から奪う何ものも、この地上には存在を許されていない。ただ、自分だけが、彼女の唯一の愛の対照として生きることができる。
 彼女に達する黄金の階子《はしご》は、ただ彼の鍵によってのみ開かれる。いかほどの高処に彼女が在ろうとも、彼だけは、的確に到達することができるので、この誇とも自負ともいうべき心持は一方においては、全然無条件に彼女の高貴を承認し、讃美する。彼女の尊厳が加わるに連れて、彼の意識の奥に横わるこの自信も強度を増して来る。今の彼にとっては、これ等二重の心持が働きかけて、彼と彼女をかたい抱擁の光輝に包みながら、飽くことを知らぬ愉悦の彼方まで吹き送ったのである。
「俺は仕合わせだ」
 彼は恍惚として顔を撫でた。
「俺は仕合せだ。若いマージー、美しいマージー。フム……俺も若いのだ。そして子供達も――子供達も悪くはない、仕事はよくなるだろう、生活はよくなるだろう、俺は仕合わせだ。彼女も仕合わせだ。
 二人ともが健康で、愛し合い扶け合って、これから幾年か、そう幾十年か一緒に生きて行くのだ。よい! 生活は、よい!」
 彼は急に何か熱い塊りが喉元に突掛って来るのを感じた。幸福な戦慄が彼の体を貫いて走った。
「マージー……」
 彼は、しっとりと湿って柔かいマーガレットの裸形《むきだし》の手を取りながら、微かな香りのある腕を、じっと自分の岩畳な腕の下に締めつけた。
 長い林檎林を抜けると、道は急に開いて、二人の前には寝静まって森閑とした大通りが黒く現われた。そこを横切る踏切りを抜けて一二丁行ったところに、彼等の安眠の巣が大きな樺の樹に覆われて建っているのである。村に育って村に住む彼等は、何度この道を歩いたろう、過去幾年か通り過ぎ踏み馴れた、その道を今彼は、輝きに騎るような心持で履《ふ》み越えようとしているのである。
 眠った家々の屋根や、動かない樹々の重い梢々が、高い透明な大空の穹窿《きゅうりゅう》の下に、見えない刻々を彫みながら、少しばかりずつ、地殻の彼方へずり落ちて行くような感じを与えた。樹蔭の闇から月光を反射する窓硝子や扁平な亜鉛屋根の斜面が不思議に悒鬱《ゆううつ》な銀色で、あたりの闇を一層際立たせ、同じような薄ら寒い脊骨を刺すような光線は土に四本並んで這う鋼鉄の線路からも反射しているのである。線路の傍に小さく建った番小屋の傍まで来ると、今までWに体を持せかけるようにしていたマーガレットは、急にぱっちりと眼を見開きながら身を起して、
「好い月ね」
と云った。広い鍔の陰から、丸い顎を仰向けるようにして朗らかな天を仰だ眼を落すと、彼女は、ちょっと眉を顰《しか》めるようにして、彼方に光っている鈍銀の窓々を見た。
 静かな晩――W、汽車は大丈夫?
 マーガレットのこの質問は、決して無意識ではない、彼等はもうさっきから、軌道《レール》の上に響いて来る、重い威圧的な機関車の音を聞いていたのである。Wはちょっと頭を廻して提灯の灯ほどに見える赤い前燈《ヘッドライト》と踰《こ》ゆべき軌道の幅とを見較べた、が、それだけの注意さえ、このときの彼には何となく滑稽に思われたほど、動いて来る燈と軌幅との差は大であった。不安を持とうにも、持ち得ないほど大きな差である。自分達の若い、健康な四本の脚が、この悦に満ちた晩に、どうしてこのたった五尺前後の空間を横切れないことがあろう。彼は、マージーの臆病を揶揄《やゆ》する少年のような声を挙げて、高々と笑った。
「大丈夫さもちろんマージー、さあ行こう」
 Wに腕を扶けられながら、彼女はまたちょっと頭を傾けて彼方に流眄《ながしめ》を与えると、そのまま良人の自信に絶対の信を置いたような歩調《あしどり》で動き出した。そして、ファミリアな無関心の二三歩を踏んで、その次を運び出そうとした瞬間、彼女は小さい声で、
「おや」と云いながら、前へ行こうとした良人の腕を押えた。
「どうした?」
「ちょっと……」

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