マージーは、彼に委せた右の腕にグッと力を入れながら、体を浮かせるようにして、不自然な形で後方に残った左足を前へ引こうとした。
「どうしたのマージー」
「踵《かかと》が挾まったらしいの」
「踵が挾まった? どこへ」
Wはちょっと小戻すると、さながら落した手巾《ハンカチ》を拾おうとするより、もっと落付いた何でもないふうで彼女の華奢《きゃしゃ》な、白い長靴の上に身を屈めた、この刹那、彼の脳裡では、妻の靴の踵が線路と板との間に喰われたその事実と、前後に連関した何事をも考えることができなかった。今、マージーの動けなくなった、同じ線路の上を、猛烈な勢で突進している列車の薄黒い連鎖と、このことの間には、その瞬間何の連絡をも取っていなかった。或は、列車という意識さえ、彼の心には浮んでいなかったといっても好いほどの驚くべき余白《ブランク》が、幸福で身慄う彼の、形の好い頭のうちに生じていたのである。
興奮が産んだ、この無意味な意識の余白は、いつかマーガレットにも感染していた。彼女も彼と同様の放心状態に在った。まるで日向で草でも見るように、
「取れないだろうかね」
と呟きながら、跼んで良人の、月光に白く光る背中に手を置きながら、彼女は時間を忘れた平静さで、そろそろと足を動しに掛ったのである。しかし、重い荷車の車輪で圧拉げられた分厚な板と、不動の軌道との僅かな間隙に、ほんとの力の機勢《はずみ》で喰いこんだ踵は、体を前後に揺るくらいのことでは、とうてい抜けるものではない。胴で括れて、末端が広く銀杏形に開いた女の高い踵は、恰も運命の係蹄の如く、微妙な一点で、彼女を完全に生捕ってしまったのである。二三度|扶《こびっ》てもカタリとも動かない強固《ファームネス》さに、或る漠然とした、得体の知れない焦躁が二人の心に湧き上ったときである。今までただ洞穴のように真暗く見えていた番小屋の中から、一人の男が小さい手提洋燈を振りながら、恐ろしい惶しさで馳けつけて来た。
「どうしなさったかね、あなた早くせにゃあ」
眼をしょぼしょぼさせた猫背の男は、息を呑んだような気忙しさで、せかせかと喘ぎながら、早口に囁いて跼み込んだ二人の周囲を動きまわった。
「あなた、早くせにゃあ危い、殺される、あなた、早くせにあ、あなた汽車が来る!」
この最後の一句が、呆然としていた二人の心に慄然《ゾッ》とする冷水を浴びせかけた。
「汽車?![#「?!」は横1文字、1−8−77]」
弾かれるように体をあげた二人の目前には、瞬間忘れられていた恐ろしい機関車が、刻々と確乎たる歩程で突進している。
「汽車!」
俄に体を反らせて飛上ったマージーは、急に狂気したような鋭い叫びを挙げながら身をもがいた。
「W、早く! 早く! 早く!」
とっさの激動《ショック》に夢中になった彼女は、当もなく拡げた両腕を振りまわしながら、叫声を挙げ、身をもがき、焦躁《あせ》り猛る。しかし、Wは、失神したように呆然と口を開いて、この瞬間を立ちつくした。極度の緊張と衝動が、頭のうちで、一時にぶつかった彼には、何が何だか、いくら考えても訳が解らないような気がした。一切がポーッと心の前で、ぼやけきっているような気がした。が、それにも拘らず、彼には、何かひどく明白なもの、胸が悪くなるほど、図々しく白ばっくれて解りきったものが心一杯に詰っていた。何か惨酷な、血みどろな、プンと鼻を突く嗅《にお》い、自暴自棄な、死ぬに極ってらあというような心持、その死をフフンと他人事《ひとごと》のように嘲笑してやりたいような気分、あらゆる激情が、この刹那、彼の見開いた魂の絶壁の際でこんがらかった。陰気な、気に喰わない、いやな……、Wは顔中をくしゃくしゃに顰めて、あたかも叱責するように妻の方を振向いた。瞬間、彼は甲高な、刺すようにひどく憐れっぽいマージーの叫声が、
「W、ア! W早く! 救けて」
と息も切れ切れに叫びながら、彼に向って白い丸い、可愛い二本の腕をさし延すのを見た。
「マージー!」
Wは、俄にかっとなるほどの恐怖を感じた。その、何だか分らない、宇宙がどっさりと落ちて、体中にのしかかって来るような致命的な恐怖を反撥するように、或はそれとガッシリ組合って、彼のうちには血がドクドクと音を立てて、狂奔するような反抗を感じた。Wは、愛着、憤怒、恐怖、反抗に夢中に小突きまわされながら、いきなりマージーの足を掴むと、髪の毛を逆立てたような眼付をして、それを力委せに彼方へ捻った、と、同時に、体を半ば宙に浮かせてフラフラしていた彼女は、死ぬような悲鳴と共に、バッタリ軌道を横切って倒れてしまった。動顛《どうてん》した男達は、踵を一厘も動かさないで却って彼女の足の骨を挫《くじ》いてしまったのだ。しかし、誰もそんなことを思うだけの意識を持ってはいなかった。皆の気が違っていた。ましてこの場合、軌道の内側に倒れたマージーを、逆に倒して、足一本の犠牲で、彼女の生命を救おうとするだけの周密な考慮をめぐらす頭脳はなかった。すべての魂が、奈落へ逆落しになっていた。すべての意志が、流星のように顛落していた。統御を失た本能の、眼のない、大きな真黒い頭ばかりが、無二無三に方向の定まらない動乱を起したのである。
一旦右側を下にして倒れたマージーは、やがて必死《デスペレート》な歯軋りと一緒に上半身で飛び上った。
「駄目だ! 駄目だ! もう!」
彼女はいきなり咆吼とも悲鳴ともつかない叫びを挙げながら、獣のような勢で夢中になった良人の胸元に跳びついた。
「W! 駄目! もうだめ、早く逃げて、よ! 子供が、アー、駄目よ! 駄目よ! W!![#「!!」は横1文字、1−8−75]」
十|呎《フィート》ほどの距離まで接近して来た列車は、ギラつく前燈《ヘッドライト》を一面に軌道の上に投げていた。その、蒼白い月光と、赤い焔のような光線の混乱し錯綜した、斑《ぶち》まだらな明りのうちで、我を失ったWは、自分の魂にピッタリ貼りついたように近々と髪を乱し、歯をギリギリと噛みながら、瀕死の鳥が羽摶く通りに身をもがくマーガレットの、恐怖と哀願と、そして極度の憤怒にかきむしられたような顔を眺めた。それを見ると、彼は、何でもかでも、マーガレットが、彼女の全生命で感じている、そのことを、きっかりと一つの間違いもなく自分の心に感じているのを感じた。今死のうとする眼と眼が、かっちりと火花を散らして結び合った。
「死ぬもんか! 馬鹿!」
どうして、ここで死ななければならないのか? どうして死から逃れるか? そんなことが問題ではなかった。ただ反抗である。彼女の悪霊のようなもの凄い相貌から、彼の魂へと、裸形《はだか》で踊り込む生の、飢渇のような欲求である。彼女を馳り立てるが故に、彼女も馳り立てずには置かない本能の爆発である。死んで堪るもんか、死ぬもんか、何だ! 馬鹿、畜生! 悪魔!
Wはいきなり拳を振って弾機《ばね》のように空中へ飛び上った。と同時に、叩きつけるように、地面へ落ちて、知覚を失ったマージーの体に、喰いつくように掴みかかると、決然と、あたかも宣告を下すように、
“No! sir”
と叫んだ。
この瞬間、彼の心を満したものは、決して、愛する妻を独り死なせるに堪えないという単独な情でもなければ、偕《とも》に死ぬべきであるという倫理的な判断でもない。まして、この瞬間に、生と死とを選択して、英雄的最後を選ぼうとするような心はない。ただ、彼女の全霊が、真赤な火の玉のようになって燃え上った生の執着の偉大なる共鳴である。二つの箇体が、一つの生命になっていた。一つの生命の前にあらゆる空間が絶していた。二つの体躯を貫通して反響があったばかりである。彼の心には、死という文字の存在を許す、いかほど些細な間隙もなかった。あくまでも生である。何といったって生きてやるぞ! という真っ暗な絶叫である。死んでも生きて見せるぞ! という執念である。ひたすらの執念である。あの寸刻前の恍惚は? あの幸福な夢幻は? 運命は、運命は……。そんなことがあって堪るもんか。彼は、生命全部の緊張をただ一点に集中して“No! sir”と叫んだのである。何に? もちろん死である。体中でふるえながら、二人の周囲を駈けまわって、叫んだり、呟いたり、躓《つまず》いたりしていた猫背の男は、Wが“No! sir”と叫んで、マージーの上に重るように地上に横ったのを見るや否や、殺されるような悲鳴を挙げて、走り出した。なぜとも分らずこちらへ向って確実に猛進して来る列車の、一つ目の化物のような前面を目がけて馳け出したのである。が、二三間行くか行かぬに、彼の聾《ろう》した耳を劈《つんざ》くようにシュワッ! と空気を截断して、機関車の丸い頭部が擦れ違った。と同時に、彼は轟々《ごうごう》たる車輪の響に混って何ともいえない人間の叫喚が、あたりの空気を刺しとおして空の彼方まで響きわたったような気がした。彼は急に双脚の力を失った。地面がズルッと足の下で滑った。彼は髭の疎に生えた口をパッと開くと、あらいざらいの生命を一時《いちどき》に吸いこむように息を窒《つ》めて、傍の茂みの中に転り込んだ。
一分……二分……三分……。
彼はそろそろと両膝を突いて、草の中から起き上った。そして怖じた兎のように眼を剥《む》いて恐る恐る周囲を見まわした。
月が照っている。窓々の硝子は光り、樹々が眠っている。しんかんとした夜の空気……。
「これが?」
彼は肩を窄めて、
「これが? これが死? これが? これが?」
痩せた顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、440−11]《こめかみ》をヒクヒクと痙攣《けいれん》させながら、彼はまたのび上って、そろそろとあたりを見まわした。
底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
1979(昭和54)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年1月2日公開
2003年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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