現われた。そこを横切る踏切りを抜けて一二丁行ったところに、彼等の安眠の巣が大きな樺の樹に覆われて建っているのである。村に育って村に住む彼等は、何度この道を歩いたろう、過去幾年か通り過ぎ踏み馴れた、その道を今彼は、輝きに騎るような心持で履《ふ》み越えようとしているのである。
眠った家々の屋根や、動かない樹々の重い梢々が、高い透明な大空の穹窿《きゅうりゅう》の下に、見えない刻々を彫みながら、少しばかりずつ、地殻の彼方へずり落ちて行くような感じを与えた。樹蔭の闇から月光を反射する窓硝子や扁平な亜鉛屋根の斜面が不思議に悒鬱《ゆううつ》な銀色で、あたりの闇を一層際立たせ、同じような薄ら寒い脊骨を刺すような光線は土に四本並んで這う鋼鉄の線路からも反射しているのである。線路の傍に小さく建った番小屋の傍まで来ると、今までWに体を持せかけるようにしていたマーガレットは、急にぱっちりと眼を見開きながら身を起して、
「好い月ね」
と云った。広い鍔の陰から、丸い顎を仰向けるようにして朗らかな天を仰だ眼を落すと、彼女は、ちょっと眉を顰《しか》めるようにして、彼方に光っている鈍銀の窓々を見た。
静かな晩――W、汽車は大丈夫?
マーガレットのこの質問は、決して無意識ではない、彼等はもうさっきから、軌道《レール》の上に響いて来る、重い威圧的な機関車の音を聞いていたのである。Wはちょっと頭を廻して提灯の灯ほどに見える赤い前燈《ヘッドライト》と踰《こ》ゆべき軌道の幅とを見較べた、が、それだけの注意さえ、このときの彼には何となく滑稽に思われたほど、動いて来る燈と軌幅との差は大であった。不安を持とうにも、持ち得ないほど大きな差である。自分達の若い、健康な四本の脚が、この悦に満ちた晩に、どうしてこのたった五尺前後の空間を横切れないことがあろう。彼は、マージーの臆病を揶揄《やゆ》する少年のような声を挙げて、高々と笑った。
「大丈夫さもちろんマージー、さあ行こう」
Wに腕を扶けられながら、彼女はまたちょっと頭を傾けて彼方に流眄《ながしめ》を与えると、そのまま良人の自信に絶対の信を置いたような歩調《あしどり》で動き出した。そして、ファミリアな無関心の二三歩を踏んで、その次を運び出そうとした瞬間、彼女は小さい声で、
「おや」と云いながら、前へ行こうとした良人の腕を押えた。
「どうした?」
「ちょっと……」
マージーは、彼に委せた右の腕にグッと力を入れながら、体を浮かせるようにして、不自然な形で後方に残った左足を前へ引こうとした。
「どうしたのマージー」
「踵《かかと》が挾まったらしいの」
「踵が挾まった? どこへ」
Wはちょっと小戻すると、さながら落した手巾《ハンカチ》を拾おうとするより、もっと落付いた何でもないふうで彼女の華奢《きゃしゃ》な、白い長靴の上に身を屈めた、この刹那、彼の脳裡では、妻の靴の踵が線路と板との間に喰われたその事実と、前後に連関した何事をも考えることができなかった。今、マージーの動けなくなった、同じ線路の上を、猛烈な勢で突進している列車の薄黒い連鎖と、このことの間には、その瞬間何の連絡をも取っていなかった。或は、列車という意識さえ、彼の心には浮んでいなかったといっても好いほどの驚くべき余白《ブランク》が、幸福で身慄う彼の、形の好い頭のうちに生じていたのである。
興奮が産んだ、この無意味な意識の余白は、いつかマーガレットにも感染していた。彼女も彼と同様の放心状態に在った。まるで日向で草でも見るように、
「取れないだろうかね」
と呟きながら、跼んで良人の、月光に白く光る背中に手を置きながら、彼女は時間を忘れた平静さで、そろそろと足を動しに掛ったのである。しかし、重い荷車の車輪で圧拉げられた分厚な板と、不動の軌道との僅かな間隙に、ほんとの力の機勢《はずみ》で喰いこんだ踵は、体を前後に揺るくらいのことでは、とうてい抜けるものではない。胴で括れて、末端が広く銀杏形に開いた女の高い踵は、恰も運命の係蹄の如く、微妙な一点で、彼女を完全に生捕ってしまったのである。二三度|扶《こびっ》てもカタリとも動かない強固《ファームネス》さに、或る漠然とした、得体の知れない焦躁が二人の心に湧き上ったときである。今までただ洞穴のように真暗く見えていた番小屋の中から、一人の男が小さい手提洋燈を振りながら、恐ろしい惶しさで馳けつけて来た。
「どうしなさったかね、あなた早くせにゃあ」
眼をしょぼしょぼさせた猫背の男は、息を呑んだような気忙しさで、せかせかと喘ぎながら、早口に囁いて跼み込んだ二人の周囲を動きまわった。
「あなた、早くせにゃあ危い、殺される、あなた、早くせにあ、あなた汽車が来る!」
この最後の一句が、呆然としていた二人の心に慄然《ゾッ》とする冷水を浴びせかけた。
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