「汽車?![#「?!」は横1文字、1−8−77]」
 弾かれるように体をあげた二人の目前には、瞬間忘れられていた恐ろしい機関車が、刻々と確乎たる歩程で突進している。
「汽車!」
 俄に体を反らせて飛上ったマージーは、急に狂気したような鋭い叫びを挙げながら身をもがいた。
「W、早く! 早く! 早く!」
 とっさの激動《ショック》に夢中になった彼女は、当もなく拡げた両腕を振りまわしながら、叫声を挙げ、身をもがき、焦躁《あせ》り猛る。しかし、Wは、失神したように呆然と口を開いて、この瞬間を立ちつくした。極度の緊張と衝動が、頭のうちで、一時にぶつかった彼には、何が何だか、いくら考えても訳が解らないような気がした。一切がポーッと心の前で、ぼやけきっているような気がした。が、それにも拘らず、彼には、何かひどく明白なもの、胸が悪くなるほど、図々しく白ばっくれて解りきったものが心一杯に詰っていた。何か惨酷な、血みどろな、プンと鼻を突く嗅《にお》い、自暴自棄な、死ぬに極ってらあというような心持、その死をフフンと他人事《ひとごと》のように嘲笑してやりたいような気分、あらゆる激情が、この刹那、彼の見開いた魂の絶壁の際でこんがらかった。陰気な、気に喰わない、いやな……、Wは顔中をくしゃくしゃに顰めて、あたかも叱責するように妻の方を振向いた。瞬間、彼は甲高な、刺すようにひどく憐れっぽいマージーの叫声が、
「W、ア! W早く! 救けて」
と息も切れ切れに叫びながら、彼に向って白い丸い、可愛い二本の腕をさし延すのを見た。
「マージー!」
 Wは、俄にかっとなるほどの恐怖を感じた。その、何だか分らない、宇宙がどっさりと落ちて、体中にのしかかって来るような致命的な恐怖を反撥するように、或はそれとガッシリ組合って、彼のうちには血がドクドクと音を立てて、狂奔するような反抗を感じた。Wは、愛着、憤怒、恐怖、反抗に夢中に小突きまわされながら、いきなりマージーの足を掴むと、髪の毛を逆立てたような眼付をして、それを力委せに彼方へ捻った、と、同時に、体を半ば宙に浮かせてフラフラしていた彼女は、死ぬような悲鳴と共に、バッタリ軌道を横切って倒れてしまった。動顛《どうてん》した男達は、踵を一厘も動かさないで却って彼女の足の骨を挫《くじ》いてしまったのだ。しかし、誰もそんなことを思うだけの意識を持ってはいなかった。皆の気が違っていた。ましてこの場合、軌道の内側に倒れたマージーを、逆に倒して、足一本の犠牲で、彼女の生命を救おうとするだけの周密な考慮をめぐらす頭脳はなかった。すべての魂が、奈落へ逆落しになっていた。すべての意志が、流星のように顛落していた。統御を失た本能の、眼のない、大きな真黒い頭ばかりが、無二無三に方向の定まらない動乱を起したのである。
 一旦右側を下にして倒れたマージーは、やがて必死《デスペレート》な歯軋りと一緒に上半身で飛び上った。
「駄目だ! 駄目だ! もう!」
 彼女はいきなり咆吼とも悲鳴ともつかない叫びを挙げながら、獣のような勢で夢中になった良人の胸元に跳びついた。
「W! 駄目! もうだめ、早く逃げて、よ! 子供が、アー、駄目よ! 駄目よ! W!![#「!!」は横1文字、1−8−75]」
 十|呎《フィート》ほどの距離まで接近して来た列車は、ギラつく前燈《ヘッドライト》を一面に軌道の上に投げていた。その、蒼白い月光と、赤い焔のような光線の混乱し錯綜した、斑《ぶち》まだらな明りのうちで、我を失ったWは、自分の魂にピッタリ貼りついたように近々と髪を乱し、歯をギリギリと噛みながら、瀕死の鳥が羽摶く通りに身をもがくマーガレットの、恐怖と哀願と、そして極度の憤怒にかきむしられたような顔を眺めた。それを見ると、彼は、何でもかでも、マーガレットが、彼女の全生命で感じている、そのことを、きっかりと一つの間違いもなく自分の心に感じているのを感じた。今死のうとする眼と眼が、かっちりと火花を散らして結び合った。
「死ぬもんか! 馬鹿!」
 どうして、ここで死ななければならないのか? どうして死から逃れるか? そんなことが問題ではなかった。ただ反抗である。彼女の悪霊のようなもの凄い相貌から、彼の魂へと、裸形《はだか》で踊り込む生の、飢渇のような欲求である。彼女を馳り立てるが故に、彼女も馳り立てずには置かない本能の爆発である。死んで堪るもんか、死ぬもんか、何だ! 馬鹿、畜生! 悪魔!
 Wはいきなり拳を振って弾機《ばね》のように空中へ飛び上った。と同時に、叩きつけるように、地面へ落ちて、知覚を失ったマージーの体に、喰いつくように掴みかかると、決然と、あたかも宣告を下すように、
 “No! sir”
と叫んだ。
 この瞬間、彼の心を満したものは、決して、愛する妻を独り死なせるに堪え
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