は、微風に連れて雲のように膨れたり萎んだりする白布を背景にして、眩ゆそうに額際に腕を挙げたマーガレットが、血色のよい頬に渦巻くような笑を湛えながら、“Halloo dear”と野放しの声を投げる。
 質素な木綿着物に包まれた彼女のほっそりとした体の周囲からは、やや田舎めいた、清潔な快い糊のにおいがプント立ちのぼるだろう、濡れて光る双手、小さい汗のために水蜜桃のような顎――あらゆるものが彼女の母性《マザーフット》を囲んで耀くように見えた。壊れかけた玩具も、磨かれた家具も、すべてが彼女の影を受けて始めて、活々として見えるようにさえ思われるのである。
 そういうとき若い良人のWは、涙が出るほどの悦びを感じずにはいられなかった。しかし、その悦びは、決して今のようなものではない。何と云ったら好いだろう。ちょうど、仕合わせな、可愛がられる子供が、髪の毛を透して母親の慈愛に満ちた寵撫《パット》を受けるときのような心持である。その膝に靠《もた》れてそのまま眠ってしまいたいような信頼である。「我等の母」に対する尊敬ともいい得る感激なのである。
 けれども!
 Wは、半ば駭《おどろ》き、半ば歓喜の含羞《はにか》みで上気したような瞳を瞬きながら、自分の腕に倚って歩を運ぶマーガレットを眺めた。
 そこには、いつもの見馴れたマージーの、主婦《ハウスワイフ》らしい地味な、取繕わないふうは、その影さえも止めていなかった。何か非常によきもの、美しきもの、それ等は、彼がかつて一度も彼女のうちに見出したことがないようにさえ思われるものが、今薄いラベンダーの着物に包まれて、半ば眼を瞑《つむ》るように閉じながら、足音も立てずに引添うて来るマーガレットの周囲に燦然《さんぜん》と耀いているのである。
 日常生活の単調な反復が、いつか積らせた鈍重な塵の底に埋もれていた美が、今、その遮蔽物を掻きのけて光り始めたのであろうか。
 それとも、久振りの甦った亢奮が、彼女に新しい魅力を加えたのであろうか、それはどっちだかW自身にも判断が付かなかった。
 けれども、歩むにつれて、フワフワと揺れる鍔広《つばひろ》の帽子が、すべすべな頬を斜に掠めて優しい影を投げ、捲毛から溢れた小さい耳朶から、芳しい頸、胸と何の滞りもなく流れる円滑な線が、レースと、飾帯《サッシ》につけた花束の間に幻の如く消えている、その繊細な、柔かく、軽い、夢幻的な美は、身を引緊めるような謎を持っている。Wは、恰も女王に仕える騎士のような眼差しで、霧のような日光を浴びたマーガレットの横顔を偸見《ぬすみみ》た。この美くしさ! それは全く、情慾を超えた高貴であった。異性が、互に思いも懸けなかった崇高な美を対手のうちに、さながら霊感の如く発見する、稀有な瞬間の一つであった。匍匐《ほふく》する現実から截《き》り放たれて、彼は飛翔する光りもののうちに、永遠の女性の再誕を感じたのである。
 しかし、この霊的な、この世の者でないようにさえ見えるマージーの美に対する讃嘆は、殆ど無意識に彼の心の底に横っている、何ものにも換え難い安らかさ、確信ともいうべきものと相呼応して、一層彼を有頂天にしていた。それは、この尊むべく、愛すべき女性は、一生を徹して、自分に保証された者であるという落付きである。この宝物を、彼の掌から奪う何ものも、この地上には存在を許されていない。ただ、自分だけが、彼女の唯一の愛の対照として生きることができる。
 彼女に達する黄金の階子《はしご》は、ただ彼の鍵によってのみ開かれる。いかほどの高処に彼女が在ろうとも、彼だけは、的確に到達することができるので、この誇とも自負ともいうべき心持は一方においては、全然無条件に彼女の高貴を承認し、讃美する。彼女の尊厳が加わるに連れて、彼の意識の奥に横わるこの自信も強度を増して来る。今の彼にとっては、これ等二重の心持が働きかけて、彼と彼女をかたい抱擁の光輝に包みながら、飽くことを知らぬ愉悦の彼方まで吹き送ったのである。
「俺は仕合わせだ」
 彼は恍惚として顔を撫でた。
「俺は仕合せだ。若いマージー、美しいマージー。フム……俺も若いのだ。そして子供達も――子供達も悪くはない、仕事はよくなるだろう、生活はよくなるだろう、俺は仕合わせだ。彼女も仕合わせだ。
 二人ともが健康で、愛し合い扶け合って、これから幾年か、そう幾十年か一緒に生きて行くのだ。よい! 生活は、よい!」
 彼は急に何か熱い塊りが喉元に突掛って来るのを感じた。幸福な戦慄が彼の体を貫いて走った。
「マージー……」
 彼は、しっとりと湿って柔かいマーガレットの裸形《むきだし》の手を取りながら、微かな香りのある腕を、じっと自分の岩畳な腕の下に締めつけた。
 長い林檎林を抜けると、道は急に開いて、二人の前には寝静まって森閑とした大通りが黒く
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