男は車屋に払い私の荷物を運んで行った。
 目がくらくらする様な気になりながら私は一番奥に居る事だと思ったので西洋間へ速《はや》い足どりで入った。と、私は棒立ちに立ちすくんでしまった。それと同時に止めても止らない涙がスルスルスルスルと頬をながれ下った。まあ何と云う事だろう。
 一番先に私の眼にふれたのは沢山ならんだ薬瓶でその次には二人の医者、両親と女達にかこまれて居る私の妹は一番最後に目に入ったほど大切に取りまかれ、大切にとりまかれるほど悪く悲しまれて居た。
 パアッと瞳の開いた輝のない眼、青白い頬、力ない唇、苦しさに細い育ちきれない素なおな胸が荒く波立って、或る偉大なものに身も心もなげ出した様に絶望的な妹の顔を一目見た時――おおあの時の恐ろしさ、悲しさ、いかほど年月を経るとも、私に生のあるかぎりは必ずあの顔を忘れる事はあるまい。
 どうして忘られ様、可哀そうな。
 母は私の顔を静かに見あげて妹にその視線を向けた。取り乱さない様子――強いて気を落つけて居る母の顔にはいかにも苦しそうな表情があった。
 私はまっすぐに一人では立って居られない様になった。
 顔の筋肉の痙攣につれて無意識にしたたり落ちる涙にあたりはかすんで耳は早鐘の様になり、四辺が真暗になる様な気がして誰に一言も云わずに部屋の隅の布団のつみかさなりに身をなげかけた。
 女達は私の左右に立って「どうぞ、一言呼んで差しあげて下さいませ。どうぞ、どんなにまあお待ち遊ばして」
 今はもう只うとうとと眠って居る様な妹に一言云いたいために――一度その名を呼びたいと私は唇をしっかりかんで唇のふるえるのを鎮め、私の顔を苦しく引きつらして行く痙攣を押え様とした。
 二三分の後わずかに静かになった心をそうっと抱えて私は可哀そうな幼い妹のそばに座った。
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「華子さん、華子さん。
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 二言三言私はようやっと呼ぶ事が出来た。けれ共何の返事も、まつ毛一つも動かさない眼を見た時又悲しさは私の心の中を荒れ廻っていかほどつとめても唇が徒に震える許りで声は出なかった。
 母親は今朝はいろいろのまぼろしを見て、私が帰って来て嬉しいと云ったとか、視神経が痛められて何も見えず暗いから燈火をつけろと云いながら声ばかり聞えて姿の見えない母を求めて宙に手さぐったとか涙のにじんだ辛い辛い声で話してきかせた。
 
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