う」
 藍子は、ハガキの住所と女の名を、小さい手帳に写しとった。

        二

 翌朝、藍子が寝床の上で目を醒した時、四辺《あたり》はいつになく森としていた。
 どこか、ただの静けさとちがっていた。藍子は起きて、窓の雨戸を繰り開けた。
 外は雪であった。夜じゅう相当に積った上へ時々明るく雪片が舞い下りている。
 三月で、近くの地面の底にも、遠くの方に見える護国寺の森の梢にも春が感じられる、そこへ柔かく降り積む白雪で、早春のすがすがしさが冷気となってたちのぼるような景色であった。
 藍子は、朝飯をすますと直ぐ、合羽足駄に身をかためて家を出た。偶然の雪が却って彼女に興を与えた。生来雪好きの藍子は電車の上り口に、誰かの足駄から落ちた一かたまりの雪が、ほんの僅か白くあとは泥に滲んで落ちているのにまで新鮮な印象を受けた。
 本郷区役所前で電車を降り、右へ折れて、藍子は湯島天神の境内に入って行った。大鳥居から拝殿へ行く石畳みの上へ一条雪掻きでつけた道がある。本殿から社務所のようなところへ架けた渡殿の下だけ雪がなく、黒土があらわれ、立木の間から、彼方に広い眺望のあることが感じられた。
 藍子は人っ子一人いない雪の中に佇んで暫くあちこち見ていたが、渡殿とは反対の方角に歩き出した。やがて、見晴し亭と朱で電燈の丸火屋に書いた奉納燈があり、同じ文字の横看板をかかげた格子戸が向うに見えた。藍子は「婦系図」の、やはり湯島天神境内の場面を思い出し、自分の書生っぽ姿を思い合わせ、ひとり笑いを浮べた。
 格子をあけると、十八九の束髪に結った女が出て来た。
「こちらに大塚おいねさんて方おいでですか」
 女は怪訝《けげん》そうに藍子の女学生風な合羽姿を見上げながら曖昧に、
「さあ」
と答えた。
「ついこの頃新しく来なすった人あるでしょう? そのかたに尾世川さんのことで来たって、ちょっと呼んでくれませんか」
 銀杏《いちょう》返しに結った平顔の、二十五六の女が変な顔をして出て来た。疑わしげに、女は藍子を上下に見ながら、
「どんな御用なんでしょう」
と云った。
「尾世川さんのことで上ったんですが、おいそがしくなかったらちょっとお話したいと思って……」
「あ、そう……じゃどうぞこちらへ」
 女は先に立って、廊下のつき当りの小間をあけかけたがそこはそのままにして、次の間へ藍子を入れた。
「ちょいと御免なさいね、今お火をもって来ますから」
 八畳の座敷で、障子の硝子越しに、南天のある小庭と、先にずっと雪に覆われた下谷辺の屋根屋根の眺望があった。
 藍子は、女が若しか廃業でもしたい気かも知れないと思って来たのであったが、その推察ははずれていたのを知った。
「あんたの気持をよく聞いて帰れば、尾世川さんも種々しいいんだから」
 千束から人の来たことを話しても、女は身にしみては聴いていない風であった。打ちあけて何も話さず、てんから藍子が尾世川の何かでありでもするように、
「ねえ、あなた。後生だから一目尾世川さんに会わして下さいよ。あなたの御迷惑んなるようなこと、きっとしませんから、ね? 一目会わして下さい」
 躙《にじ》りよって来て藍子の膝に手をかけ、軽くゆすりながら女は片袖で涙を拭いた。
「なんにも私が会わせるの会わせないのって……そんな因縁ありゃしませんよ。ただ――あんただって訳のあることだろうし」
「ええ。その訳がね、どうしたってあの人に会わなけりゃ分らないんですよ。折角来て下すったのに何にも云わないでさぞ厭な女だとお思いでしょうけれど、どうぞ悪く思わないでね、どうかあなたのお力で尾世川さんが来るようにして下さいな」
「――私はお使者なんだから、それは云いますけどね」
「来てさえくれりゃあ、本当にわかるんですから……」
 女は帯の間から桜紙をとり出し、それを唇でとって洟《はな》をかんでから、銀杏返しの両鬢をぐっと掻き上げた頸筋にだけ白粉の残っている横顔を伏せ、巻莨《まきたばこ》をすい始めた。
 女の素振りには藍子に対する誠意が乏しく、只尾世川を来させろと繰返す執念だけが強い感じであった。それも彼の恋しさばかりとも思われず、藍子は、女が莨を一本すい終るのを待って立ち上った。
 女は、送り出して藍子のコートを着せかけながら、
「それにね、私んところにあのひとの大事な万年筆があずかってあるんですよ、そのこともどうぞ云っといて下さいね」
と、真面目に云った。
 藍子は、女のそういう下心が憎めないような、単純さに微笑まれるような気がした。その万年筆というのは、藍子が自分用に丸善で買ったが、ペン先が堅すぎるので尾世川にやった、それなのであった。

 出がけにちらちらだった雪が、帰途には熾《さかん》に降りしきった。空からドンドン降るのを見るとまるで灰みたいなものが、地面から或る
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